ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

あの夏と本

 日に照らされて明るく光るひまわりに太陽を見た。真っ青な空に入道雲が立ちのぼっている。世界があんまりまぶしくて目がくらくらした。蝉の声は日夕しみわたっていて、いつも傍にいるかのような親しみを覚える。日本の夏は豊かである。
 学部二回生の夏休みは割に自由に与えられていて、すきなことをして過ごすことができる。この学生でいられる残りわずかの自由な青春の夏休みに、遊びには目もくれず図書館にこもっているような愚か者たちがいた。
 私はそのような愚か者たちと、夏休みに本を読んだ。読書会と言いお互い疑問を挙げ議論しながら読み進めていく本の読み方だ。ひとり閉じこもり世界と一対一に向きあい読むのも心躍るものなのだが、それとはまた違った経験ができる。
 西田幾多郎の『善の研究』*1という哲学書を同回生の友達と、グレートブックス読書会で出会った方に先生をお願いし、指南を賜りながらともに読みすすめた。何人もで同じ本を読むというのはそれだけで個性が出る。頭の中で読む人、本にいろいろと書き込む人、ざっくりと全体を眺めようとする人、具体に照らしながらじっくり読む人など実にさまざまで学ぶことが多い。かしこいまわりの人たちに圧倒されてときにはぺしゃっとなることもあるけれど、なんのこのと発起して自分にできる限りの理解を以て読む。皆で疑問や批判を加え、腑に落ちたりできなかったりしつつ進める。そうしてひととおり読み終わったころには、読みはじめる前にまるでもっていなかった世界観を得る。これがたまらなく楽しいのだ。世界が色づき、自分の世界に透明なフィルターがかかる。目の前に立ちあわれるものを新たな見方でとらえて考えることができる。このたのしいいろめがねを友人と共有できるのは読書会の一興でもある。
 ところで実をいうと私の専門としているところは哲学ではなく物理なのだ。それ故どうして理系なのに哲学書なんて読むの、必要ないでしょうとときどき訝しがられる。たしかにこんなに専門外の本を読むのに時間を割くなら数学や物理の本を手に取るべきとも思う。一つのことを極めることこそ正義と人はいう。その通り、その通りかもしれないがしかしどうしたってやめられない。自然科学だって哲学だって、そのほかの分野の学問や文学だって、いずれも真理を見極めようとする姿勢は共通していて、みな根底でつながっているように思えてならないからだ。物理は世界のあらゆる物に備わる性質の一部を取出してモデル化し、それに関する普遍的な法則を見出すところ、さらに未来予測まで試みるところにおもしろさがあるように思う。自然現象における普遍的なものを抽象しようとするのだ。しかしそもそも普遍とはなんなのか、なぜ普遍と思われるものが人間には抽象でき理解しうるのか。どうしても不思議で根本的なところに立ち返ってしまう。世界を紐解く手がかりはきっと一つではない。自分が気になることからは離れられない、どうにも仕様がない性分なのだ。
 実は『善の研究』を読んだ友人も専門を数学、生物、工学、法学とする人々で、哲学を専門としているのは先生だけであった。見る世界も興味あるものも違い、目の付け所も様々だった。しかし根本的なところを知りたい掴みたいという気持ちは一緒であったように思う。皆世界を紐解く手がかりをえたいのだ。この大学にはそのような無鉄砲な性分の人が少なからずいる。専門外の勉強であっても厭わずに好奇心にひっぱられるままわくわくとやってのけてしまう人々が。不器用な浮世離れで損かもしれないが、自分の好きなことに対しては人一倍真摯。そんな仲間たちと、同じ本を読み、同じ思想に浸かり込んだ夏休みであった。色づきあざやかな世界を前に、蝉の声がこだましている。まぶしい日差しに照らされながら、なんていい青春だろう、と思った。