ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

東京フォビア

 

東京にはすべてがあって、なにもない。

 

私は東京生まれで、一応江戸っ子でもある。

小さなころは東京に、江戸を感じていた。

夏の運河の少し焼けた潮の匂い。築地市場で喧しく行われる競り。

神保町の古本街、数学の本を買ってもらった八重洲ブックセンター

明治維新の跡と古くからある仏閣。巨大な鯨の骨の博物館。

ちょっと背伸びして読んだ文学。根津の紫の桔梗たち。

 

この余白ともいえる文化のかおりが、子供の私は好きであった。

あの時のままに東京が見えていたら、東京になにもない、などと言わなかったと思う。

でも毎年父の仕事場から見ていた隅田川花火大会は、湾岸開発で見えなくなった。

新宿御苑の緑は、ギラギラしたビル群が借景になった。

 

私の知っていた江戸は、どんどんだれかに取られていった。

私の生まれるずっと前から東京だったけれども、今の東京は、江戸ではない。そんな変な感じがしている。

 

 

受験戦争。

わたしも一応中学受験をしたが、今と違ってずいぶんのんびりとしていた。

毎日16時のチャイムまで校庭で遊びほうけて、チャリで塾まで通った。

それなりに勉強はしていたけれど、親は勉強を決して強制しなかったし、

私の成績に口出ししたり、ましてや成績上位でマウントをとるなどありえなかった。

ちょうど6年生の夏に文豪の小説をあさりたくなり、

両親がいろいろと買っくれたおぼえがある。

背伸びして田山花袋を読んだり、三島由紀夫を読んだりしていた。

でも好奇心旺盛なませた女の子には井伏鱒二の「山椒魚」くらいが丁度だった。

夏休みには家族で旅行に行った。熱海の海で日がな浮かんでは、海は人生だ、と思ったりした。

黒々と日に焼けた受験生が誕生していた。

 

中高一貫の学校に入ったが、「生徒」という身分の自由のなさになじめなかった。

はじめは寄り道がいけないなんてこと何も知らずに、

制服のまま学校近くのヴィドフランスで優雅にパンを食べていた。

もちろんお金はないから飲み物はレモンの入った水をいただく。

このころ、渋谷、原宿、新宿、池袋など、目まぐるしい広告だらけの風景を知った。

それが好きではなくて、本郷から湯島まで歩いたり、汗を垂らしながら不忍池の蓮を見たり、湯島聖堂に通ったり

自分がおもう江戸を求めていた。

生徒としての役割はあったが、ずいぶん飄々と時を過ごしていた気がする。

 

大学からは京都に行ったため、鴨川の陽気を摂取する妖怪になった。

馬鹿の一つ覚えみたいに四六時中勉強したり、いやになったら投げ出して、

上賀茂神社まで歩いたりした。

鳩をたくさん従えている鳩おじさんや、ぼろぼろの服にハーモニカを持った音楽家に出会った。

よく川に入って遊んだ。

 

初めて京都から東京に帰省した時、すでに、大空と鴨川の陽光と空飛ぶ鴫たちがあたりまえになっていた自分にとって、

東京駅のそびえたつビル群は衝撃的だった。

こんな箱に数千人詰め込まれて、労働に従事させられているなんて、

なんて非人道的なんだと思った。

レンガづくりの東京駅が、形見狭く、ちいさく見えた。

人々の娯楽も、箱へ、消費へ、埋め込まれていた。

 

私が大学に長く在籍している間に、ますますビルが建ち、空はなくなり、散歩道は失われていた。

築地は移転になった。

築地場外は伝統のお店わずかと観光客向けになり、江戸の人はおいていかれた。

商店街に変なゆるキャラができた。

賄賂だらけのオリンピックが開かれた。

美術館はマンションになった。

広告には品とかモラルがなくなった。

公園は太陽光パネルにになった。

電車の中から街中まで、すべて有用で埋め尽くされていった。

 

 

 

東京は、どんどん余所のひとのものとなっていく感じがした。

わたしが知っている東京は、夏は風鈴がリンと鳴り、縁日ではウナギ釣りをし、

年に一度の公園の雪にダイブする、それが東京だった。わたしの江戸。

 

自分が過ごしていた江戸の根がなくなってしまって、

故郷、と感じられなくなった。

 

 

故郷。江戸。

 

ここに生まれたはずなのに。

 

 

たしかに東京にはあらゆる現代的娯楽が集まっている。

東京にすべてあるように勘違いされるかもしれない。

でも江戸はないんだ。

 

故郷を失ったと感じる私は、

川の光をもとめて京都に戻るのであった。

 

 

流れゆく われはみづくと なりはてぬ

君しがらみと なりてとどめよ

             ーー菅原道真