ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

「シルヴィアのいる街で」解説 映画の印象派としてのホセ・ルイス・ゲリン

 

 ため息が出るほど美しい、というのは平凡な表現ですが、シルヴィアのいる街はその言葉がぴったりな映画だと思います。この映画が私たちに開示する映像美と爽やかな心情は、外界と内面の優美な均衡をもたらし、どこか美しい異国へ誘われていった感覚をもたらします。芸術というのを、純粋に美しさを提示するものだとすれば、これは視覚・聴覚芸術である映画において本物の芸術作品だと思います。この映画は、ストーリーや主張を極限まで廃して、高次の形式の美しさを画面全体に豊かに表現されています。その表現の絵画性と音響のモチーフの奏でる音楽はこの映画を洗練された芸術の高みへ並べます。

 

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シルヴィアのいる街で 唯一の言葉

目次

1.あらすじ

2.映像の印象派

・純粋な美しさ

・映像の印象派

・凝視の視点

・鏡

3.ソナタ形式の自然音

4. 見ることの魅力と恋

 

1.あらすじ

 ご覧になった方ならすぐにお分かりなように、この映画のストーリーは極めて単純です。言うまでもありませんが映画のジャンルには様々あって、人を楽しませるためのものや、人間の醜さに焦点を当てたもの、メッセージ性の強いものや特定の感情を喚起させるもの、政治的意図や耳障りのいい文句の溢れたものなど無数にあります。この映画に関しては、物語や主張をなくすことによって一時間半の長いフィルムが美しい風景へのささやかな旅路として円熟しています。

 

【シークエンス】

この映画は物語性が薄いので、シークエンスとストーリー二つであらすじ解釈を分けます。

第一夜 主題の提示(ホテル、街並み、カフェ、les aviateur)

第二夜 主題の発展(カフェ→シルヴィアの発見、街並み→シルヴィアの追跡、les aviateur→新たなシルヴィア)

第三夜 主題の再現(ホテル、街並み、カフェ、les aviateurにいた人々、シルヴィア)

 

情緒的な面は次で詳しく説明します。

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シルヴィアのいる街で 揺れる髪

【ストーリー】

 主人公は6年前の恋人のシルヴィアを探して彼女のいた街にやってきた青年。プロットでは彼は『彼、夢追い人』とされています。

 彼はカフェで様々な人に視線を投げて、デッサンをしていました。シルヴィアを探しながら。様々な人を見つめて観察するうちに、赤いタンクとスカートで白い肌を煌めかせた美しい女性を見つける。はっとした彼は彼女を追いかけます水。彼は迷路のような街を長く追いかけました。裏道、大通り、公園、店舗、駅のプラットフォーム。彼は彼女を追いかけますが、声をかけることはしない。私達は、彼女はシルヴィアなのか?という疑問を頭に浮かべながら、青年と美しい街を歩みます。

 長い追跡劇ののちに彼女は路面電車に乗りました。青年も少し離れたドアから乗車します。電車が動き、青年ははじめて彼女に話しかけました。「貴方はシルヴィアですか?」「いいえ。そんな名前じゃないわ。」人々はこのシーンにたどり着くまで一切会話をしませんでした。少なくともストーリーの文脈の上としてはなされませんでした。しかしここではじめて彼が彼女と話し、観客にや青年自身に様々な思いが明らかにされます。彼女は彼の追跡に気づいていたこと。青年が彼女をシルヴィアだと思いこんでいたこと。こんなことすら観客にとっては初めて確信となります。「ずっと追いかけてきてとても気味が悪かったわ。」女性はとどめを刺します。「それに私がこの街に来たのは一年前。私は彼女ではないわ。」そして詰ります。「長いことつけられて君悪かったわ。」彼はこの動揺で「6年前、君は少し若かった。」などと余計なことを言って彼女を困惑させます。あまりに謝る彼に彼女は口をつぐむポーズをし、一緒に降りないでね、と冗談半分本気半分の別れを告げました。投げキスの明るい別れですが、電車が動くとうつむいた青年が窓に写ります。ブロンドの青年の伏せた目の悲愴は、明るい街の情景と溶け合って、彼の内面と無関係に美しく、彼の青い目は柔らかな木と木漏れ日と調和しています。美しい景色は優しい車輪のリズムと共に動き、彼の心の中で何かが動いていることを伺わせます。

 青年はその後、昔シルヴィアと出会った「飛行士」という名のバーに行きます。彼はそこでブロンドの美しい女性を口説きます。彼女は青い挑戦的な目と魅力的な唇をもっていて、容貌も雰囲気も髪の色も先程の「シルヴィア」とは大きく異なります。しかし彼の表情からは、これがシルヴィアを見つけられなかったやけくそになって行った行動なのか、単に美しい女性を手に入れたいだけなのか推測できません。彼女は酔いで夢のような目をしており、曲が変わり彼女も踊りはじめます。彼に目もくれず。青年は虚しさをかき消すようにドラムの音を軽く指で踏みます。その女性は別の男性とダンスを始めます。優しいギターの曲「僕は変えれるかもしれない。でも彼女がいい。」その後彼の視線はまた別の女性に移り、黒々とした服に銀のチェーンのいかつい風貌にまっすぐに伸ばされた髪へ向かいます。青ざめたと言えるほど青い彼女の肌に憂鬱な黒い目がどこか一点に呆然と注がれています。

 シーンはバーから彼の宿へ移ります。その夜の彼のベッドには黒髪の女性が寝ています。暗くてよく見えないけれども、外の車が照らす光から女性は長いウェーブした髪を持っていて、うつ伏せで彼を眺めています。バーでであった女性とは異なるのでしょうか。私たちにはしらされません。

 翌朝再び彼はカフェに現れます。給仕の女性はDesirelessのVoyageを口ずさみながら洗ったグラスを拭いています。彼は黒人商人から買った音の鳴るライターでグラスを拭く彼女を笑わせます。ささやかな視線の交わりののち何事もなかったように元の時間へ戻っていきます。ふとした視線の先に彼は赤いドレスの女性を見ました。はっとした彼は再び「彼女」を追いかけます。彼女はシルヴィアなのでしょうか? カフェから彼が離れていく後ろ姿、彼が路面電車のレールを渡ると電車が通りすぎ、彼はもう過ぎ去ってしまいました。美しい街の静寂は彼の不在による空白感と溶け込んで、これから永遠に会わない人に手を振る時の清涼な気持ちを私たちに残します。

 駅まで追跡した彼は、追跡した女性がトラムに乗り振り返った顔を見て、その場を去ります。シルヴィアではなかったのでしょう。駅には様々な人がいます。彼はまた見つめるという行為を始めます。カフェであった女性たち、美しくなびく髪、顔にあざのある女性、昨日バーで振られた美女も誰かに手を振っています。電車にシルヴィアの物憂げな美しい顔がうつり、彼女が路面電車の中にいます。彼には気付かず、電車の中で誰かと握手します。最後、見慣れた街中を人々や自転車や電車が通り過ぎ、映画世界は幕を閉じます。

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シルヴィアのいる街で 追跡劇


 

2.映像の印象派

【純粋に美しい映画】 

 この映画では光に溢れた美しい絵画がスクリーンの中で動き出します。空間と時間による光の質の変化の描写であり、これは印象派の特徴でもあります。街の音、人々の歩く音や自転車のベル、ささやかな話し声や電車の音が、主人公の感情に呼応するように、内面と景色が美しく調和していきます。さらに映画は絵画と違って時間の継続、音響も加わります。この時間・音は、画面や音として繰り返し現れるモチーフによって洗練された交響曲のような構成をなします。”LAURE JE T’AIME”のらくがき、花を持った男性の歩み、ホームレスの瓶の転がる音、黒人商人の売るライターの音、様々なものが目にも耳にも音楽のメロディのように繰り返し登場します。この身近な音たちが織りなすリズムは、音楽と同じく物語性の希薄なこの映画に統一とハーモニーを生み出しています。

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シルヴィアのいる街で LAURE JE T'AIME


【映像の印象派

 この映画世界の中では、モネやルノワールのような印象派のような画面が、光に溢れた美しい絵画が、スクリーンの中で動き出します。

 印象派は光の変化や空気感など一瞬の印象を再現した作品を制作しました。それゆえ明るい画面の鮮やかな色彩の作品が多く制作されます。一方「シルヴィアのいる街で」は映画であるがゆえにその光の変化や空気感が持続し、移り変わるものとして映しだされています。印象派たちが止めた一瞬をさらに時間的広がりを見せます。例えば路面電車の駅のシーン。人物たちが動くことによって、様々な角度から眺められた駅の風景とそこに流れる時間が表されています。またピントの調整の移り変わりによって大胆に省略される背景のタッチも印象派を連想させます。カフェでヴァイオリンを弾く二人の女性は前の女性から後ろの女性へ視線がうつり、前の女性はピントの合わない淡い存在になります。このように光や色彩の使い方が印象派に類似しています。

 印象派の特徴である風景や普通の人や街並みを映画の題材とされている点も類似しています(これ自体はリュミエールに始まる映画史として、初期映画の特徴でもあります。当時は画面が動くという自体が大変画期的だったので、いつもの風景が画面の上で動くことを人々は楽しみました。)それから1950年代まで演劇や小説が映画化されることが流行りました。シェークスピアモリエールなどほとんどの有名な演劇作品が映画になったのではないでしょうか。また小説の映像化は皆さんもご存知のように今でも無数の例が挙げられます。この風潮により、映画は物語を提示するものだという大きな流れが出来上がり、基本的には現代もその傾向は続いています。しかし、この2011年公開の映画は物語性が薄く、ドガが追求したような都会生活とその中の人間が美しく抽象された形で描かれます。

 多くの人が指摘するように、les aviateursのシークエンスではマネのフォリー・ベルジェールのバー[A Bar at the Folies-Bergère]のオマージュがなされています。このあまりに有名な名作と同様、バーの女性店員は鏡を背景として黒い衣装に身を包み、胸にピンクのバラをさします。勿論この女性は19世紀後半酒と愛の売り子であったバーの娼婦とは異なる存在ですが、その柔らかな動きはどこか愛嬌と寂しさの織り混ざった姿は色っぽくもあり子供らしさもあり、見るものを微笑ませます。

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シルヴィアのいる街で マネ フォリー・ベルジェールのバーのオマージュ

[出典]

tableau vivant | marauding ennui

 

 この映画では、印象派の特徴である空間と時間による光の質の変化の描写がなされています。さらに景色も美しいですが、何より人間の美しさが強調されています。楽しげに会話する女性の陽気、背を向けて髪を結ぶ優雅さ、首元のほくろから露わになる肉感、風に揺れる髪の自然さ。「彼女」の白い肌、大きなバラのような眼差し、「彼」のカールしたきらめく木の葉のような髪、透き通った淡いブルーの瞳。これらの艶やかさはこの映画が描き出すことに成功した人間の美しさの抽出だと考えられます。

 心情描写も映像と一致するように描かれます。印象派以降の人物画も、対象をそのまま表したり身に着ける服や絢爛な装飾によって権威を示すものから、その人や画家の内面を表すような絵画に移り変わっていたようでもあります。マネは女性を多く描きましたが、作家自身の貪欲な愛情を色と形に表すことに成功しました。その絵からはパリの空気を感じ、スカートの衣摺れから香水が漂います。この映画もシルヴィアを見つけてはっとした彼の後ろを路面電車が走り、がたんごとんという音が彼の心のざわめきと一致します。彼女に詰られるシーンでも、シルヴィアじゃないわとわかった時も、謝りすぎてもうやめてと言われる時も、電車が止まって静寂に包まれます。この静けさは彼の心の動揺を強調しています。このように心情も映画世界と調和しているのです。

 この映画は、絵画として光の動きを捉え、内面を画面に映し出し、都会の生活を描いた印象派を映像として発展させました。美しい画面やその感覚の爽やかさから「映像の印象派」と呼べるのではないでしょうか。

 

【凝視の視点】

 凝視の視点とは、一見画面上で何が起こっているか分からず、観客に凝視させ、視線の誘導を誘う方法です。タルコフスキーノスタルジアに関してこの方法論を多く用いました。ゲリンはタルコフスキーのように、暗い画面を用いて凝視の視点を用いることはしませんでした。しかし、長時間観客に、変化のない(ように見える)画面を提示し、動き出すものに視線を誘導させるという方法は同じです。この手法は特に初めのシークエンス、主人公がホテルにおいて物思いに耽る場面において、有効に用いられています。主人公はベッドに座り静止している。暗い部屋の中で睫毛がミントブルーの瞳に影を落とします。暗い部屋の中私たちは質素な部屋で考え込む美しい青年と同じ時間を過ごします。青年は一体何を考えているのでしょう? 彼の世界に耽溺しているのか素朴に興味を持ち始めます。カットを変えても青年は思考し続けます。観客はそれを見つめます。突然思い立ったようにノートを取り出し、日記を書きつけます。鉛筆の音が響きます。様々な角度から思考を描写する彼の姿が映し出されます。彼のは何を考えているのでしょう?彼は何を書いているのでしょ?この場面は、語らないということを語ることによって私たちにこれから何かが起こると期待させます。その点でこの凝視の視点は非常に効果を持っています。この場面に誘導された私たちの感覚は、希望を持って明るい街に出ていく主人公と一緒に、わくわくしながら映画の世界に出かけて行きます。

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シルヴィアのいる街で 凝視


 

【鏡】

鏡は、物語を優雅につなげる役割として現れます。この作品では鏡の表現が視線の、本物の鏡ではなく窓ガラスに映る景色、電車に写る人も含みます。 愉快に遊戯をする親子、その前を電車が通る。リズムの良い軽快な音を立てる車両越しに、親子の遊びがのぞける。電車はゆっくりと通り過ぎていく。硬い金属の車両やその光る窓にシルヴィアの顔が映る。そう。彼女はホームに立ち、電車が通り過ぎ、その対岸に母娘のささやかな遊びがある。そしてこの一連の光に満ちた美しさをすべて眺める主人公が映し出される。このような視線の移り変わりが鏡を通して行われます。これはカフェのシーンでも用いられます。

 

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シルヴィアのいる街で 戯れる親子と電車に移る「彼女」

 

3.ソナタ形式の自然音

 この映画の特殊性の一つは、音の使い方です。歩く音、電車の音などの普通の生活音が、モチーフ化されてクラシックの一つの楽曲のように構成されています。普段は私たちは何気なく音を聞いています。音というのは視覚よりも消極的な性質を持っています。視覚ならば顔を向けたり視線を動かしたり対象に集中したりすることが可能です。しかしものを聞く時、多くは自然に耳に入ってくるのではないでしょうか。もちろん音楽を聞く時や耳を澄ますときなど積極的に聞くことはできますが。映画は映像と聴覚の芸術です。一般的に聴覚は主にストーリーに関係のある背景の自然音および感情を発露させるために音楽を用いられます。この映画における音の使い方は、音楽と対立させた自然音に関して、従来の用法とともに、さらに新しい使い方がなされます。ここでいう自然音とは、電車の通る音、街の鐘の音など音楽以外の映画のレコードをさす事にします。そしてシルヴィアのいる街では、驚くべき事に自然音がクラシックの古典的な作曲法に似通った使われ方で映画全体を通して”作曲”されているのです。
 

 ここで音楽の基本的な形式であるソナタ形式を大まかに参照します。

 

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提示部というのは、二つの主題(テーマ)が提示される部分、展開部とはそのテーマが展開される、再現部は二つの主題が再現されます。 提示部では第一主題が主調、第二主題が属調平行調で表されます。この変調によって曲に対立が生まれます。展開部では提示部の主題がさまざまな方式でに変形、変奏されます。転調が激しい場合も多く、最も緊張感が高まる部分です。再現部では第一主題も第二主題も同じ主調の上で描かれます。以上見てきたようにソナタ形式は大まかに三部別れます。大規模の音楽になると、さらに序奏と終奏が構成されます。

 

 さて、シルヴィアのいる街では、あらすじの章に記したように第一夜、第二夜、第三夜の三部構成です。これがそのままソナタ形式の三部に対応します。またここでは第一主題を街並みの音、第二主題をカフェ・駅などで人を見つめる時の自然音としてみましょう。これを土台として様々な自然音を主題・モチーフとして繰り返されます。提示部においてこの二つが観客に示されます。一般に変調されるのは提示部第二主題ですが、この映画においては追跡で彼と彼女がすれ違う様子であらわされています。展開部では追跡において彼と彼女の距離、それによる足音、また彼女と会話する場面での電車の緩急の音声、バー Les Aviateurでの様子においてリズムのように繰り返されつつ、変形・変奏されています。再現部ではさらに二つが対立する事なく調和します。鼻歌を歌うカフェ店員は彼に微笑みを投げます。以下表は詳細の自然音分析です。提示部で現れた音たちが展開部で発展し、再現部で見事に回収されている様子が見れます。このように、シルヴィアのいる街での自然音を主題およびモチーフとして様々な場面に散りばめらせ、映画全体を”作曲”するような構成をなしています。 

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 もちろん音楽も従来の方法同様主人公や観客の内面を引き立てるために効果的に用いられています。音楽は全8曲使われます。通し番号をつけてヴァイオリン曲A,B,C、ポップソングA,B,C,D、クラシック一曲。ヴァイオリン曲Aはカフェで流れるゆったりとした三拍子の曲で、Bもカフェでど流れますが導入的です、Cは「彼女」を追跡しているときに流れるテンポの速い曲です。特にAは「見つめること」の魅力、人間の美しさにうっとりとして鑑賞する時の甘い気持ちを反映します。ポップソングA~Cはバーで、Dは翌日のカフェで流れます。Aはゆったりとした音楽(これも三拍子)、BはBolondieのHeart of the Glass、Cは男性の優しい声がと控えめなギターとドラムに合わせて歌われ、DはDesirelessのVoyage。クラシック曲はバロックの宗教音楽で確認していませんがバッハではないでしょうか。終焉のシーンで用いられ、あたかもcodeのように荘厳な締め括りを見せてくれます。

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シルヴィアのいる街で 見つめる「彼、夢追い人」


 

 

4.見ることの魅力と恋

 この映画が何を表現したかというと、ゲリン自身が語っているように「見ること」についての映画です。柔らかい太陽を含んで揺れる木漏れ日、優しい光にあふれた中世の街並み、物悲しい音楽たち、美しい視線を投げる「彼女たち」。その美しさに引き起こされる胸の高鳴りによって、鑑賞者の感覚は恋をした時のような雲の上の柔らかい気持ちへ昇っていきます。


 主人公は『彼、夢追い人』。彼には名前が与えられてません。デッサンしていることから画学生であることは推測されます。見ることというのは彼にとって人生の中心で、意味に満ちた行為なのでしょう。ただ「見ること」という人間に共通の行為は、「彼」の匿名性によって彼を通して映画世界をみる観客の目も存在も示唆されています。彼はカフェにおいて様々な女性を観察し、デッサンをします。ある時後ろ姿のブロンドの女性に目が移ります。彼女は金色に光る髪の毛と白い背中しか見えません。彼女背の向こうには爽やかな葉の淡い緑がピントのあわない優しい風景が横たわっています。背中のほくろが彼女の存在をリアルな生き生きとしたものにさせます。その首元にゆっくりと手を添えて、優雅に首を撫ぜる姿は肉感的で、女性そのものの美しさを愛でているような感覚に陥ります。この時ヴァイオリンの演奏が始まります。もしかして、彼女がシルヴィアではないか?彼の心が浮き立つのに音楽は呼応し、世界全体が調和します。彼は席を移って彼女の顔を確認します。しかし、彼女は「彼女」ではありませんでした。彼の探している「彼女」。その奥のガラスの向こうの女性に視線が向かいます。彼女の艶やかな物想いの面持ちがガラスの建物の内側の暗闇に白く美しく映えます。はっとした彼の後ろを路面電車が走り、がたんごとんという音が彼の心のざわめきと調和し響き渡ります。

 

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シルヴィアのいる街で ガラスの奥の「彼女」

 

 「見ること」は恋をすることの一つの顕れです。恋した相手ならば、伏し目がちな天鵞絨の長い睫毛に、隠れる夜の海の深さの瞳に、艷やかに伸び縮みする唇に、太陽を刻んだ愛らしい肌に、長い間見惚れていて退屈さを感じずに、心地よいものです。もし友人との関係ならば相手の顔を観察することはあっても、無言で凝視し続けることなど滅多にないでしょう。無言を貫き相手を見続けることは失礼ですらあります。しかし恋人ならば、風に揺れる髪、こちらを向く眼差し、それらを見守り優しい愛を感じていいのです。遠くを見つめる物憂げな目、安堵に満ちたや温和な寝顔、鏡に映ったひとの視線を気にしない風貌、隣を歩く夜のひんやりとした横顔、目の開かない気怠い朝まで、素朴な一瞬がいつも煌めいているのです。その時を見つめて、輝く時間を永遠に感じながら、様々な絵画に閉じ込められた永遠が本物になって目の前に現れてきます。恋人の瞬きごとに、絵画の放つ眩しさが、その優しい目元からこぼれだします。この映画では、常に「見つめて」います。彼の視線の先を私たちは追い続け、美しい女性に魅入ったり、異国情緒のある街並みに甘く心を溶かします。彼がシルヴィアを探すとき、私たちもともに彼女を見つけたかもしれないとはっとしたり、彼女の美しさに魅せられて鼓動が高鳴ります。この時私たちは「彼」も観続けています。彼女を探し続ける彼と、彼の視線の先。見つめるということが、美しい対象を愛でることが、恋の感覚ととても似ているのです。

 この映画は私たちを恋に落ちたときような感覚へ昇らせるとともに、映画を観た後の私たちは彼や彼女たちの美しさに虜になってしまっているのです。

 

【最後に】

シルヴィアのいる街でという作品はその絵画性も音楽構成も様々な魅力に溢れた作品です。本投稿では3点の側面からこの映画を捉えました。

・「映像の印象派」としてのこの作品

・音楽構成理論に基づいた自然音

・見ることの魅力と避けがたく類似した恋の感覚

日常の美しさを極度に洗練された形に仕上げたこの作品は見るものをうっとりとさせます。この映画の面白さが一人でも多くの人に伝わり、愛されることを期待しています。

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シルヴィアのいる街で elles