ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

時が割れた

透明な川が入道雲の鏡になっている

原色で塗りたくった空と木々

世界は太陽と灼熱の色

 

明るすぎる日差しの下に

あなたがいた

初めて

ずっと前からそこにいた

世界の豊かさが私の目を開いて

私はあなたと初めて出会った

 

それから毎日おはようって

晴れの日も嵐の日も

たまに助けてって言った

あなたは笑って答えた

 

毎日毎日

あなたは同じようで、少し違う

よく笑ってる

色々なものに絡まれて

それでもあなたはいつもあなたで

きっと私も

 

長い夏の終わり

夜が少しだけ寒くなってきた時

初めてちゃんとおしゃべりしたね

ちろちろと川の水音を横に

くるぶしに当たる風が少し冷たい

ねえ、あの時何の話をしたっけ

忘れちゃったよ

あなたは覚えてる?

 

あなたは時

なんでって?

なんかそんな感じがしたから

いいでしょ?

 

昼間も寒くなってきたあの日

私が失敗で左右が見えなくなった時

あなたは横にいてくれた

あなたはいつもそこにいるから

時々思わない?

植物たちも何かを感じて、知っているって

 

私ね、何日か出掛けてて深夜に帰ってきたの

次の朝、いつものようにあなたに挨拶しようと思ったの

そしたらね

あなたはいなかった

 

もう二度と会えない

なぜ?

あなたはもういない

 

あなたはもういない

もう二度と

 

ねえ時

あれからね、

いつもあなたがいないなって思うの

ただいないなって思う

それだけ

毎日毎日あなたがいないなって思う

 

ねえ時

無常なの世界は?

善とか悪とかわからなくなっちゃった

こんな話もあなたとしたいのに

私は感情がないよ

 

ねえ時

またお話ししたいよ

またさ、おはようって言おうよ

あなたのことまだ何も知らないよ

感じたいよ

あなたの息吹を

 

ねえ時

なんか今涙が流れてるよ

これは何?

やっと戻れたのかな

私どこにいるのかわからないの

世界の果てに


最も厳しい場所に
最も美しいものが
ある

みつけた
太陽のきらめきを瞳に宿し
言葉など必要ない
全てはあまりにも明白で
あなたしか必要ない

生が美しいのは
死がすぐそこにあるから
生きることそのものが美しいのは
大いなる愛が顕れるから

自己を没したところに
大きな目的のために
在るの わたしたちは

生きて

涙を落としても花は咲かない

 

境界線のない世界
それは遠く、果てしなく遠い

怒りには二つある
境界線の中と、外へ

泣いている暇はない
でも泣くことはある 

境界線のない世界
それは果てしなく悲しい

私は泣いていない 自分が悲しむことなどない 
でも私は泣いている 自己とは自分ではない 
私は悲しくなどない 悲しみの境界線を作らない

生きているだけで踏みにじる
様々なものを、人を、

今日も世界は酷い でも世界は美しい 

苦しみのない世界など望まない 
狂っているのはどちらなのか

人間の意志

 

私はあまり人に対して怒りません。怒らない人間というわけではなく、しょっちゅうキレ散らかしているのですが、問題は大抵個人ではなく、背後にある社会やその構造、コンセンサスにあるため、個人に対して怒りをぶつけることがあまりありません。

 

先日美容院に行った際、美容師さんが障害者・ホームレスに対する差別発言をしていました。
「田舎から出てきて、都会にはホームレスとかいてワーワー唸ってたり変な動きしてて怖かったw田舎にはああいうのいないから」
のようなことを言っていました。


私はそれに対して怒りを感じ、脳内はキレ散らかしていましたが、怒りの矛先はその美容師さんではなく、背後の社会に向いていました。
病気かもしれない人々をそのように放置する社会、ホームレスに対する蔑視感情、理解できないものは同じ人間だと思わない、人権に対する軽視。


このような社会的背景が、その美容師さんをスピーカーにして話していただけだと思います。だからこそ、美容師さん自身に悪気がないことを理解していて、個人に対して怒る気になれないのです。

 

人間はスピーカー。

 

私は長らく人間のことや人間の意志が信じれず、人々のことを自分も含め、社会が私達をスピーカーにして話しているだけと感じてきました。人間はスピーカーでしかなく、そこに意志はない。背後の社会を一旦無視して、人間同士の伝達に目を向けると、人間はコピー機でした。人間は他人の発言をコピーする機械にすぎない。そう思うことによって、人の悪意や不正義を、その人の本物の感情ではないと思うようにしてきました。

 

 

しかし、最近は全てにおいてスピーカーやコピー機では無いと気づきました。


人間一人一人には芯のようなもの、個性と言えるようなものがあると思います。人は社会の色々なものにもまれて生きており、それぞれの経験をしながら生きています。その経験に対して、自分の頭で、自分の言葉で、自分の個性で以て考え抜いて出てきた言葉には、真の価値があると思うようになりました。それは結果的に他の人間と同じ発言となっても、コピー機ではないと感じました。


先程の美容師さんの話でいうと、大地震で被災した体験とそこからくる話は本物だと思いました。


彼の実家は海辺の民宿であり、そこは津波で全部流されてしまった。その時耐震対策がされた少し高台にある某プラントが開放されて、みんなそこに避難していた。その工場に対しては地元の人間としては清濁合わせた色々な感情があるものの、その時助けてくれたことやそこで働いている人々の真摯さは忘れない、といった内容でした。
(なんで美容院でそんな話をしたかと言うと、地元の話になった時に彼の出身地(被災地)に私がいったことあり、人間の頭の高さまで津波が来たという標識を見たという話をしたからです)


人への感謝という話は非常にありきたりですが、実際の経験に裏打ちされた言葉には、彼の中で噛み締められ、心の底から出で来た真の力があるように感じました。

 

誰かのコピーではなく、社会のスピーカーではなく、自分の頭で、自分の言葉で、自分の個性で以て考え抜いて出てきた言葉には、真の価値があると思います。

 

美容師さんのはじめの差別発言に対しては、私は「理解できないものを怖いと感じる気持ちはわかるけど、その人は病気かもしれないし、同じ人間だとおもってその人の立場で考えて見たほうが良いかもしれない」とだけ伝えました。その人が自分で考え、蔑視も含めた自身の感情に向き合い、自分の力で気付いてくれることを願います。

 

 

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元旦の大地震で、私はとても心を痛めていました。自分ではどうしようもない力で人が亡くなってしまうことに、やるせなさを感じていました。


なのに一部の人間は、安全地帯に住んでおきながら、人の心配をするでもなく、人が亡くなっているかもしれない災害を自分の意見を強化する材料として利用していました。ものすごく怒りが湧きました。倫理観とかないのかと思いました。


何も知らないくせに。何も考えてないくせに。


しかもその発言に共鳴している人たちの多さにも愕然としました。コピー機ですよ。まさにコピー機でしかない。自分の頭で今何をするべきか考えろよ、なんでそんな簡単なことも出来ないの、と思いました。人が亡くなってるのに?


私は人間のことを信じたい。信じたいんです。

 

とてもつらくなったので、友人のアドバイス通りXアプリ消してます。タイムライン見れないようになってるので連絡はその他手段でお願いします。

えげつない祖父

 

 私は祖父を知らない。彼は50代で早逝した。どの孫の顔も見なかった。

 私は祖父がいわゆる昭和の怖い親父であるような話を聞いていた。しかしあるきっかけからとても興味深い人物に思えた。彼の若い頃を知るべく祖父の知己である松沢さんという方の居所を祖母に聞いた。電話もわからなかったので、私は失礼を承知しながらその住所に訪れた。念の為仏壇にあった祖父の写真を借りた。

 

 それは東京の文京区にある、大きな日本家屋だった。塀は漆喰かと思われる白さで、古い木の門には黒光りする金属の荘厳な加工がされ、たどり着くには石畳が連なっていた。その日は死ぬほど暑くて、太陽が漆喰を真っ白に反射させていた。門の前につくと木の表札に力強い楷書で松沢と書かれていた。恐る恐るインターホンを鳴らした。

「松沢一昭さんはいらっしゃいますか?」

「はあ、おりますけど。」

 私は祖父のことを聞きたいという用件を手短に伝えた。インターホンから「はあそうですか、ちょっと待ってください」と聞こえた。遠くの白い雲がゆったりと近づいてきた。しばらく待っていると、重々しく金属がキイ音を立て、門が開けられた。体格の良い初老の男性が出てきた。白いTシャツと赤い半ズボンを身に着け、頭は短く刈りあげられ、ガキ大将がそのまま大人になったような見た目だった。明治時代のようなちょび髭がその威厳になんとも不釣合だった。 

 「どうぞおあがりください。」インターホンと同じ声が発された。 私は後につづいた。門の先は入口の石畳がそのまま続き、その端は背丈くらいの竹林になっていた。家は立派な日本家屋だった。切妻屋根は奥まで真っすぐと伸び、釈薬瓦が力強く太陽を反射している。大きく堂々たる後ろ姿はこの邸宅の持ち主然としていた。彼は私に何も聞かず、私は邸宅に目を奪われて何かを切り出そうとも思わなかった。 

 「どうぞ。」と案内された玄関土間は広く、客席一式が置かれていた。正方形で角が柔らかく丸くされたテーブルに、直角の背もたれの椅子が置いてあった。ふすまを三つ通って客間に案内してくれた。漆が美しく輝くめずらしく入側縁で、庭園が広く見渡せた。

 私は促されてそこに座った。ガキ大将のおじさんは木に肘を置きながら話し始めた。おじさんはは祖父の友人、一昭さんの息子さんだそうだ。ます、わざわざ来訪してくれたことに礼を言われた。一昭さんは昭和3年生まれの91歳だ。彼はベッドで寝たきりだけれども、記憶以外は、年齢の割にははっきりとして、動くことも話す事もできるそうだ。おじさんは、一昭さんが私と話してもいいと言っていることと、私に大きな声で話すように伝えてくれた。

 靴を脱ぎ、家の奥に案内された。車椅子に座って、背中を丸めた痩せて小さい人物がその人のようだ。おじさんとは似付かない。このおじいさんは別の時代の人物を生きた人ということがはっきり見て取れた。堅く座った目で私たちの動きを追った。真っ白な髪が抜け切ることなく優しく彼に身についていた。

  私は挨拶して、来訪の目的を伝えた。つまり、私の祖父の話を聞きたいことを伝えた。おじいさんは私を見つめたまま動じなかった。私ははっとして、もう一度聞きたいことを伝えた。大きな声で、ゆっくりと。そして、私は友人の孫だと。

 おじいさんの表情が少し動いた気がした。彼の不動の目は少し青がかっていて、涙丘のそばに老木のような瘤がある。肌は皺の一つ一つが年輪のように重なり、90年を超える長い月日を思わせた。

 私の祖父が亡くなったのは正確には56才だ。彼はそれ以上歳をとらない。彼の時間はそこまでで、それ以上の祖父のことは誰も知らない。祖父の時計はピタリとそこで止まり、それが完成された形として残された者たちの記憶に留まっている。なのに祖父の友人であるこの人が、未だ未完成のままこうして長く生き、時計を動かし続けていることが不思議に思われた。年齢の数以上ありそうな皺を動かさずに止まっていた。

 突然流れ星のようにおじいさんが大きく目を開けた。そしてゆっくりと元の表情に戻り、呟いた。

「おお、叶野か。叶野貞治。あいつは力のあるやつだった……。 」

 

  感激の身震いが顔から肩を通って身体中に伝わったのが見えた。おじいさんは郷愁の波に流されそうになるのを意志の力でせき止めて、私の目をじっと見つめた。

 

「君は貞治の孫なのか。」

 おじいさんの目。顔は皺で折り畳まれているのに、青く滲んだ小さな瞳には力が宿ったように見えた。目だけは年を取らない人がいるのだ、と初めて知った。

 その語気は若さが滲みはじめ、次第に力強い一人の青年の告白を聞いているような気持ちにもさせた。未来のある清らかな目をしていた。年月による忘却か感情の氾濫のためか少しつっかかえながら話してくれた。未来のある明るい若者の話し方だった。

 私が貞治と会ったのは、遠い昔、私たちが高等学校の時分だった。貞治は特異な人物だ。彼はいつも一人でいたが、その存在感は雷のように輝いていた。

 少し吊り上がった目は何を言っても説得力がある。背丈は普通だが顔が小さいゆえに彼の美しさと存在感は増している。彼は小さな商家の生まれであった。当時高等学校に通ったのは僕らのように華族や国会議員、弁護士の家がほとんどだった。ただ彼は肩身がせまいと感じたことはないようだ。家は裕福ではないが、学業に秀でた彼は家では誇らしいと思われていたようだ。彼は普段誰ともつるむことなく、いつもどこかへふらっと消えていった。

 授業では先生の目を盗んでは本を読んでいた。変わり者ということで通っていたが、寡黙ながら愛想がよく、誰ともつるまないが話しかけるとなんでも打ち解けるように語った。私が彼の中で一番仲がいいのではないか、と誰にでも思わせるような愛嬌があったと思う。実際彼は友人多かった。私も彼と時たま話した。すぐに分かったことだが、奴は試験の成績の割には学に励んではいなかった。むしろ本を読むことを好むだけで、よく熱心だと勘違いされるようだった。その勘違いは便利だから特に打ち消したりはしなかった。彼は多くの人に漏れずに試験が嫌いだったが、他の友人たちとは異なった方法で憎んでいた。試験が迫ると教室は普段とは異なった様相になる。勉強のために休憩時間に机に向かう者たち、内心冷や汗をかきつつそれを嘲笑する者たち。試験という圧力から視線が錯綜し、教室全体が妙な緊張に押し込まれた。彼は必ずそういった空間から一目散に逃げいった。大抵どこか日陰で小難しい名前の論説や厄介なフランスの小説を読んでいた。ある時また木の根に寝転んで本を読んでいた。私はそこに歩み寄り、彼に聞いた。

 「お前は試験前も普段と同じように過ごしているが、家で勉強しているのか。」

 貞治は読んでいた本から黒い瞳のみをこちらに動かした。その跳ねた目は挑戦的な調子を持っていた。

 「馬鹿らしい。僕は人生に興味がないから学問をするんだ。」彼は読書に戻った。

 学問というのは身を立てるために行うものだと儒教の頃から教えれている。世界の仕組みを知ること。人間の考え方を探求すること。人々が作った仕組みをよりよく理解すること。特に彼のような裕福でない家の出ならば家族に期待されて社会的な成功を夢見るものだ。少なくとも己の意志を持って良い人生に向かおうと試みる。貞治はその点もかなり異なっていた。

 読書の時間を延ばすべく、弁護士を志すという体で帝大へ行こうとしていた。当時のあの小さな家ではかなり尖った性質だと思う。その割り切ったさっぱりとした正直が人を惹きつけた。のちに私も彼も大学予科に進んだ。世は太平洋戦争が始まっていた。

 

 僕たちの多くは世間の波とは隔離されたように学校の日々が続いた。 僕の周りは誰も招集されなかったし、当たり前のように学課や試験が課された。ただ裕福でない家の者は親戚が軍隊に行ったりなどしていたようだ。貞治も家は富有ではないはずだが、そのような話は一切しなかった。自分は所謂エリートだから兵役を免除されている。しかし従兄弟は戦争に行く。親族のため、家族のため、国のため、己の役割を果たそうと努力していた。実力でのし上がってきた者は大抵真面目・勤勉だ。そういった実力の出身のものたちは家柄だけでなく心理的な共通項から輪をなした。貞治を除いては。僕らは友人として身分で彼らを差別することはなかったが、ある種潜在的な優越を持って生きていた。ある時実力の輪のうち一人が、貞治にに突っかかっているのを小耳に挟んだ。輪の中から吠えるのは子犬のように滑稽に見え、正直に言うと、私は興味を持って耳をたてた。

 「叶野、お前の家はお前を育てるため身を削っているのに役に立たない本ばかり読んで許されると思っているのか。家にも国にも恥ずかしくないのか。」

 家や国家の名誉を考えるということが基軸にある時代である。家を貶された貞治は怒るのではないか。私は犬がかみ合うような喧嘩が始まるのを想像していた。しかし貞治の答えは異様だった。

 「俺はこういう人間なんだ。それを恥じる気は無い。」子犬はさらに突っかかった。

 「俺が言いたいのはな、お前は華族の生まれでも学者の家でも何でもないのに傍若無人なんだ。そんなことは許されない。」

 「許さないのは誰だ。挙げてみろ。お前が気に食わないだけだろう。」

 個人の意志。あのとき毀損されていた個人の考えについて指摘され、意表を突かれた子犬はしょんぼりして仲間の輪に戻っていった。

  私はこれを見て非常に爽快な気分になった。そして同時に己の狭量を恥じた。私の興味は、子犬のたちの醜い争いを身分の高みから眺めることだった。しかし、貞治はその上を行っていた。人間の小競り合いの外にいて、いわば雲の上を飛んでいるような奴だ、と思った。

 

 そんな平凡な学生生活は突然終わった。戦争が佳境に入ると、学生たちの疎開の意図も含めたのだろう、私たちは学校ごと田舎に移された。私は遠足のような気持ちでいた。世の中の戦争という事情は、私たちにとってはラジオから流れてくる音声、新聞から得る写真でしかなく、現実味に欠けていた。この年齢でも周りの誰もが召集されない。この予科に在籍する多くは高額納税者の子息で、未来の有望な若者だったから。遠くへ行くことが決まって、長期間家を離れることが稀であった私や友人たちはどことなくそわそわした。今起こっていることも、これから起こることを理解していなかったのだろう。いや想像力が欠けていたといった方が良い。我々は乗ったこともない2等の電車に飛びついた。車窓から田んぼが見えたり、駅に到着するだけで車内は湧き上がった。現実を知らない若者の、非日常の喜びで満たされていた。

 私や貞治は同じ兵器工場の配属だった。我々数十人は整列をさせられ、工場長から歓迎の挨拶があった。例によってこういった話は退屈でで中身がなかった。最後に君たちのような若く有望な諸君が国のためにここに来られたことを誇らしく思うと締めくくった。貞治は聞こえるくらいの音で鼻で笑って僕は肝が冷やされた。

 工場は非常に大きかった。

 有望な生徒たちは、国のための勉学から国のための鉄砲づくりに方向に変え、真剣に従事した。彼らは貞治はもともと小さい作業のようなことが得意だったようでその作業に苦はなかったと見える。寄宿舎に帰ると少しの飯が用意された。まわりの生徒たちは作業の効率化、よりよい銃器の製造法、など熱心に議論しあった。黙々と作業する時間長く、彼は本から切り放されている分思考する時間が大いにあったのかもしれない。貞治は少しずつ無口になっていった。頭の中だけの思考は自由だった。

 ある夜貞治は語った。

 「あの工場、僕たちが来るまでは誰が居たと思う。」

 私は彼を見た。真っ暗な中、彼は夜の闇の一点を見つめていた。私はそんなことを想像すらしなかったが、彼が何を言おうとしているか何となくわかった。その事実に考えも及ばなかった自分を恥じた。彼は続けた。

 「僕たちが次にそうなることはないだろうよ。この学校の親たちの身分を考えれば。でも、これだっていつまで続くか、わかったもんじゃない。時代が時代だから仕方ないことだが。」

 貞治はさらに寡黙に作業するようになり、紛れもなく工場内で一番の腕となっていた。それは他人には大変真自面に映り、彼はさらに重宝されるようになった。しかし貞治はますます寡黙になっていった。彼の頭の中には読書と思考があった。友人たちはトップの彼から業を盗もうと話しかけた。

  あるとき彼は私に漏らした。

 「ここでは本が読めないから想像力だけが生きがいた。」

 彼は黙っていたが、そこであまり馴染まなかったのだ。 それはそうだ。世間に興味のない飄々とした学者気質の奴が、たとえ器用だったとして、国のために兵器を作っていて平気なわけながない。

 

 

 「負けるよ。」

 平凡な工場の昼下がり、ある時貞治は突然言い放った。その途端熱い工場が凍りついた。工場の全ての手が止まり、全ての目が彼に向いた。本当は誰もがそのことを暗に感じ、それでも決して口にせず、前を向いて今の仕事に真摯に向きおうとしていた時だ。 

 「なんだ君たち。勝つとでも思ってたのか。」

 彼は失笑した。僕らは唖然として彼の一挙一動に注視した。 

 「こんなことはやめだ。俺はこんな虚無に付き合ってられない。」

 手に持っていたトンカチをそばに投げ、彼は出口へ向かって行った。音楽のように激しかった工場は静寂に包まれ、彼の通り過ぎていくところをみんなが見ていた。

 工場長が「戻った戻った」といって再び作業が始められた。工場内は騒がしくなり、一見元の活気が戻ったようだった。貞治の作業場以外は。私たち皆の心には大きな黒い穴が静かに残された。貞治の作業場は誰もいないことによって、より多くのものを語っていた。

 我々は精神的な基盤を簡単に変えてしまう。鍵穴の形にあわせて自分自身を簡単に変えて生きていく。それが友人であれ上司であれ社会という大きな流行であれ、世間の人は相手の要求に応えて変幻自在に。それが生きていく術であり、人々から尊敬される条件なのであろう。然るにこれが幸せになる一番簡単な方法だ。自分の芯を持たず、世間の風向きが変わるたびに価値観を臨機応変に操るのが生きやすいのだ。 

 それから誰も貞治を見ていない。探す気力も失せてしまう、彼はそんな去り方をした。

 

  半年ほどのち、果たして貞治が言った通り、日本は負けた。天皇の放送を聞いて謝ったり泣いたりする者は多くいたようだ。日本全体が苦境が終わった安堵と敗北感に打ちひしがれていたときだと思う。対して僕たちの工場は、全員が夢うつつなのかというほどぼうっとした空気が流れていた。貞治が言い放った虚無が私たちの心の中で芽生え、育ち、その訪れを待っていた。本物の虚無となり、春を待つように終戦を待っていた気もする。彼は特高に捕まったという噂もあったし、自殺したという噂もあったが、私は彼が何処かで生きているだろうという希望を持っていた。しかし二度と会うことはないとも思っていた。

 

 どんなに仲の良い人間であっても、人は会わないと記憶が薄れる。私は家のことで忙しく、終戦のあとのごたごたで彼のことを忘れかけていた。そんなとき、突然彼はこの家に現れた。

 彼とは積年の話がある。誰だって戦争という巨悪に巻き込まれ、物語を持っている。貞治は、あのあと、工場を去ったあと一体どうなったのか。生きていただけでも驚きである。

 貞治は終戦まで木こりをやって自活していた、そう言い、それ以上は何も言わなかった。彼が訪れた理由は、印刷業を始めるから出資してほしい、ということだった。私は上の空で承諾した。

 山で木こり……。

 彼が去ったあと、頭の中で何度も反芻された。戦争中であるにもかかわらず、工場を去って、特高もすり抜けて、山で自由に暮らしていた、と。戦争とはそのような馬鹿らしいものだったのか。皆が一丸になり犠牲になっていたあの日々。実に皮肉だ。貞治らしい。

 

 日本が戦争に負けたから貞治はよかった。焼き崩された東京の街のように、それまでの価値観がぐしゃぐしゃになり、新しく作り直されていったからだ。貞治は元々負けると予想していたわけだが……。

 そしてあの学者気質の貞治が、商売を始めるという事実に、現実のままならなさも感じていた。彼は語らなかったが、お家柄苦労して入った大学を戦争によって放り出され、戻れなかったということだろう。

 その後、貞治は商売に成功し、家をもうけ、子女を学者になるまで育てた。あのような骨のあるやつは他におるまい。

 

 おじいさんは、ゆっくり話し終えた。昔を思い出し、満足したのか、そのまま幸せそうに眠ってしまった。

 大きな日本家屋から出ると、空の青さ、夏の日差しをとてもまぶしく感じた。

 

狂気について

 

生きていると、沈んでいく。朝起きて、歯を磨いて、ご飯食べて、毎日の義務をこなし、風呂に入り、寝る。同じところに住んで、退屈が身体の内側から腐っていく。ありきたりの趣味で時間をつぶすと、指から砂のように溶けていく。同じことばかりしていると、価値のない永劫回帰を思い知らされる。

そこで私は人生に少しの狂気を取り入れて、風通しを良くすることで、生の延長に耐えることとしている。

しかし、狂気というやつは、はじめこそ狂気と感じられるものの、継続してしまってはただのありふれた日常と化してしまう。

これまで私が継続してしまった狂気と、一度きりの狂気を思い出すことで、床の染みと化した現在をいかに狂いで満たし生を延命させるか、考えてみたいと思う。

 

継続狂気① プーを飼う

プーと呼んでいるのは、ディズニーのプーさんというキャラクターの90cm(とてもおおきい)のぬいぐるみのことです。当該プーがうちに居候しており、長年飼っています。飼うと表現するのは、プーが3mの巨大クマになるまで、ご飯を与えたり、海を見せたり、庭園でのんびりしたり、一緒に旅行したり、立派な大人になってもらえるように様々な経験をさせてあげているからです。

はじめこそ、プーを外に連れて行ったときは頭が狂ってるんじゃないかと思いました。心が弱い人間と勘違いされて宗教勧誘されました。しかし、毎日一緒に暮らし、よろこびを分け合う中で、完全に日常と化していき、プーと喫茶店に行くのも何でもないありふれた毎日になってきました。プーを飼うことが狂気というよりは、プーを飼うことによって正気を保つようになってきました。

一度きりの狂気① ユーラシア大陸横断

学部のときに、トルコから中国までユーラシア大陸横断をしました。足を踏み入れた国は、ロシア、トルコ、イラン、カザフスタンウズベキスタンキルギス、中国。移動距離3万km。横断の理由は、今行くしかない、と思ったからです。毎日鬱屈とした生活を送っており、専門外の勉強をする以外何をするでもなかった時に、自称耶律阿保機と名乗る東大生を友人に紹介されて、その人今キルギスいるよと言われました。じゃあ行くか、ついでに知りたかった国全部行っとこうということで、航空券から複数国のビザまで全てを1ヶ月ほどで手配して、行ってきました。元々世界史、特にペルシャや中国の辺境民族の歴史が好きで、憧れがありました。なお、旅行自体は日常の延長感があってあまり好きではありませんが、大陸横断は文化の変化目まぐるしく面白かったです。

 

一度きりの狂気③ コウテイペンギンになる

コウテイペンギンが尊すぎて、コウテイペンギンになりました。コウテイペンギンの姿で、遊びや会社に行くなどあらゆる社会活動を実施していました。

継続狂気③ 京都の亡霊

京都で大学を過ごした人は京都の亡霊になると言われていますが、私も例外なく京都を思い続ける妖怪となってしまいました。なおこの話は時効になるまであまり詳しく書けません。気になる方は左京区を深夜に飛んでる火の玉に話しかけてみてください。「まから」が合言葉です。

一度きりの狂気④ 語学

語学ほど続けないと意味のないものはないですが、かつてフランス語、ロシア語、キルギス語、ドイツ語に手を出しました。大学サボって勉強しまくったためフランス語は2ヶ月半でフランス語検定2級筆記に合格したのですが、今はもう怪しくなっています。因みに英語もかなり怪しいです。

 

そろそろ書くの飽きてきました。ここから箇条書きにしていきます。

 

一度きりの狂気

⑤ 卒業式で本になる

⑥ 家の床を宇宙にする(賃貸)

⑦ 仁和寺の法師ごっこ

⑧ 南無大師遍照金剛スタンプの作成、家で護摩行を実施

⑨ 何とは言わないが、大学美化活動

⑩ 鞍馬天狗になる

 

継続狂気

④ 拾った動植物をその場で食べる

⑤ 一人バレーボール(自己啓発

⑥ 遊牧民になる

⑦ 半年に一度引っ越す

⑧ 寺で修行

 

まとめ

過去の異常行動を振り返っているとただ単に懐かしくなって思い出に浸りはじめてしまいました。

振り返ってみても、やはり、はじめて何かを実施するときは、霧が晴れ、朝日が輝き、はじめて色が見えたように世界が美しく見えるものです。しかし継続してやってることも一度やったことも、はじめてでなければ当たり前のことになってしまいつまらない日常に沈んでいくもののです。

つまり、振り返ってみても何も得なかったわけですが、何か面白いことやりたい人は声かけてください。

Arezou

イランのテヘランでバスを待っていると、若い男性が話しかけてきた。どこから来たの、自分はイランどこどこの出身で、など他愛もない話をしていたら、英語が話せる色んな人が集まってきた。その中のひとりにArezouという女の子がいた。彼女はゴルガーンというテヘランから400キロところに住んでいる、ぜひうちに来てほしいと言ってくれた。イランでは色んな人が家に招待してくれた。客人を招くのは文化であり見栄でもあり、本当に呼んでいるわけではないと後で聞いたが、私は何も知らなかったので、ありがとう!!!!と言ってそのまま泊まりに行った。旅人の暇人は、ビザが許す限りどこにでも行ける。彼女はご両親や弟さんや、友人を紹介してくれた。彼女は建築の勉強をしており、フランスで建築家になりたい、と言っていた。わたしたちは彼女の友人の車でドライブにでかけた。田んぼの風景が広がり、森が広がり、日本かと思った。中東は砂漠やオアシスのイメージがあるけれど、イランのカスピ海付近は稲作をするほど豊かな土地でもあることを知った。彼女とはかなり仲良くなったが、彼女は私が誰にでもついていきそうな旅行者であることを心配していた。

Arezouと次に会ったのはフランスである。私は旅行に行ったあとに語学にハマり、フランス語とロシア語をひたすらにやっていた。そしてフランスに行った。フランスでは階級社会と人種差別を露骨に見た。私は宿代をケチるためにパリ郊外で過ごしていたが、そこはアジア系移民がたくさんいる地域で、治安が悪いとされていた。白人の友達にはそんなところ泊まるくらいならうちに住め、とすら言われた。私はベトナム出身のカタコトのフランス語を話すおじさんに助けられたりしたのでここよりパリ中心部のが治安悪いと感じていたが。ただ白人のお爺さんに差別用語を言われりはした。ここは留学など身分保障付きでくるべきところだな、と思いつつ。Arezou はそんな階級社会で移民として生きていた。彼女は、リヨンの大学でフランス語の学位を取ったあと、個人事業として建築デザイナー事務所を開業、しかしそれでは生きて行けないためスーパーでアルバイトをしていた。なんというか、人生がままならないものであり、大人が皆平均に回帰していくことに、とても悲しい気持ちを覚えた。