ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

私の知らないウイグル

 

砂漠と空。地平線。太陽は静かな暴君として砂漠の隅々まで己の支配を行き届かせ、大地はその広大な懐で太陽を照り返す。黄金のまぶしい大地は空をより青く見せる。この紺碧と金色は絵の具で描いたように力強く融和する。ここは草木一本たりとも育つことを許さない厳格な土地。そこに引かれた真っすぐのコンクリートを私の乗る車は走り抜けていく。人も生物もいない静寂で、車と風だけが耳にささやきかける。太陽の厳しさに目くらくらするけれど、そのめまいさえこの美しい二元的な世界ではうっとりとした恍惚に感じられる。車の窓を開ける。灼熱の生き生きとした風が顔にぶつかり、心地よく目を閉じる。広大な空と大地には人を寄せ付けない強大な力がある。その強さに、うっとりとする。

突然、葡萄畑が広がった。みずみずしい葡萄たちが車の窓から絶え間なく現れては後ろに去っていく。私は運転手に言って、車を降りてみた。大地から続く青々しい蔓が頼りない木の支えにしっかりと絡まり、支柱と支柱の間に背格好くらいの高さに葡萄たちが実る。見上げると、それははち切れそうなくらいみずみずしい果実をたっぷりとつけてぶら下がり、若い葉と蔓の間から青い空が覗く。どこまでも向こうまで夭々たる豊かな果実のトンネルが続く。紫色の葡萄と紅色と萌黄色。葉は表は濃く裏は薄緑に蓁々と繁り、こんなにも色とりどりで優しく、うるわしい大地におどろく。車に戻って道を進めた。どんなにこの車がはやく走ったとてこの豊かな風景は尽きない。葡萄と砂漠。この土地の、美しい厳格さと、それに囲まれた尽きない富の不思議な同居に、目を奪われ、心臓をぎゅっとつかまれる。

 

「ラムレーズンが買いたいんだけど。」

私は車の後部座席に揺られながら英語で尋ねた。ここはユーラシア大陸の内部。葡萄の名産地、新疆ウイグル自治区の土魯蕃だ。今朝この駅につき、テロ対策のためかやたら厳しく持ち物を調べられた後外に出た。朝日が古いコンクリートの白い壁を照らしていた。駅の電工掲示板が赤やオレンジや緑にひかり、見慣れない雰囲気の顔たちの間を歩いていた。ここは行きたい街からは少し離れていて、どうやっていこうかと考えていたところ、英語のわかる現地の運転手が話しかけてきた。彼はタヒルといい、多くはしゃべらないが、優しく笑う人だった。商売人特有の作り笑顔はなく、少し内気で、時々笑う、柔和な雰囲気を漂わせた青年で、女性一人の旅でも信用できそうだと思った。運賃を交渉した。お腹がすいたと伝えたら、朝ごはんに連れて行ってくれた。もちもちした麺料理のラグメンを一緒に食べ、彼と私は二人街に向かった。そして砂漠を抜け、いま、葡萄畑の間を走っている。柔和なウイグル人の青年は、この民族特有の大きな目をカーミラーに映し、後部座席の私に聞き返した。

「ラムレーズンってなに?」

運転手のタヒルは三十才だ。イスラム教を受容したウイグル族の一人で、英語を学び、外国人向けにタクシー運転とガイドをしている。彼は奥さんとは十八才のときに出会い、五歳と三歳の娘と息子がいるといって、写真を出してスマホを渡してくれた。三輪車にのった女の子がタヒルと同じ柔和で大きな目で少し恥ずかげにこちらを向き、ピンク色のスカートを風に揺らしている。その奥でタヒルが男の子を抱き、かいがいしげに子供の顔を覗き込む。愛情を受ける小さな命は心もとないつぶらな瞳でカメラをみつめる。可愛いでしょと笑顔でカーミラーを見た。あんまり幸せがいっぱいすぎて、目尻からこぼれおちそうだ。だんだんその笑みから力が抜け、遠くを見つめる。でもね、結婚にはちょっと苦労したんだ。向こうの両親がはじめ結婚を認めなかったし、未婚の男女が会うのはイスラム教の説く貞淑さに悖るから。そう言う彼の目はここにはおらず、かつての喜びや苦しみのすべてが優しい思い出となった、穏やかな顔をしていた。伝統的なウイグル帽をかぶらず、英語を話す現代的なウイグル人の彼。土地のよき文化の中にそまりつつ、親の世代の価値観に少しの疑問と反抗心を抱く、とても健全な青年像がそこにあった。彼は友人に会うために礼拝には足を運ぶ。毎週友人たちと会い、固い握手を交わし、たった一週間の日常の変わり具合を話し、お互いのことを知る。彼らは、礼拝という口実をもとに、ぶどうのように、ゆるやかに、豊かに、世話の施された関係を持っていた。しかし私の些細な質問で状況は変わった。

「ラムレーズンなんてわからないよ。なんだよそれ。」

ヒルはアクセルを踏んだ。車がずんと揺れ、加速した。豊かな葡萄畑はぷつりと途切れた。再び厳しく広い砂漠のなか、コンクリートの細い一本の上を我々の車がぽつりと進み始める。かなりの速さで駆け抜けているはずなのに、青と金のあまりに強く、変化のない景色は私の進みがどれだけひ弱なものかというのを思い知らせてくる。一抹の不信が心を掠めた。ここはテロがあると聞く地域だ。あの柔和なタヒルから笑顔がなかった。さっきまでの暖かい雰囲気が泡のように消えていた。私は位置情報アプリを開き確認すると、行くべき街とは違う方向に進んでいた。おかしい。タヒルスマホをポケットから取り出した。そのせいで車はひどく揺れ、ドアに肩がぶつかり身体が悲鳴をあげた。すると彼は片手にハンドル、片手にスマホをもち電話を始めた。びっくりするほど低い声をしていた。知らない言語の、聞いたこともない音と抑揚が車内に響いた。音の出し方すら分からない乾いた発音が繰り返し耳についた。うるさい声ではなかったが、彼の大きな背中に、未知の言葉に、心臓まで響く低い声に、からだが萎縮していた。私は、たった一人だった。このさっき知り合ったばかりのウイグル人は私をどこへ連れていくのだろう。不吉にのみこまれてしまいそうだ。こっちは行きたい方角じゃないと主張してもタヒルは反応しない。ミラーをちらりともしない。もしかして騙されたのかな。不安そうに前を見つめ、無意識に自分の手を固く握っていた。どうして。どうしてさっきまで柔和だったタヒルが突然怒ったように押し黙るのか。街と垂直の別方向に進んでいくのか。私は、ここのことをなにも知らない、異邦人だ。今朝見かけた優しそうなタヒルだけを頼りにここまで来た、土地も言葉も、あまりに無知な余所者だということを思い知った。人をよせつけない砂漠のど真ん中、どうしようもなかった。スマホの画面上の地図は、広大で、何も記すものがない芒漠を、小さな車が進んで行く様子をむなしくあらわしていた。

怖じついてそわそわしながら、車は砂漠を抜け、小さな葡萄畑を通りすぎ村へ入った。車のスピードは緩まり、土煉瓦やトタンの建物が現れ、タイヤの並ぶ店の前で車は急ブレーキがかかった。私は背もたれに頭をぶつけた。タヒルはまだ電話を続けており、運転席の窓をあけた。店から五十代くらいの顎の突き出た男性が出てきた。生まれつき眉をひそめているような険しい表情をしていて、私はこれから何が起こるのか、あらゆる恐怖を頭のなかでめぐらせた。体は動かず、硬直したままこちらに向かう男性を私の目だけが追った。彼はこちらを一瞥し、真顔のままタヒルと握手した。乾いた独特のリズムの言葉が交わされていた。するとタヒルはこちらに振り向いた。

「日本語の分かる友達のところに来たから、君のいうラムレーズンの質問をしていいよ。」

ヒルは、暫くぶりに優しい目を私に注ぎ、にこりと微笑んだ。不意をつかれた。彼は、そうか。私のために、わからないこと解決しようと真剣になりすぎて、厳しくなっていたのだ。体を締め付けていた不安がふっと解かれ、安堵の嘆息がからだじゅうに広がった。彼も知らない言葉に不安で、私のために、砂漠をひとつ越えてここまできてくれたのだ。今、安心した彼の笑顔の、優しく愛らしい目尻からは、それはもう、花が溢れてくるように感じた。後部座席の窓を開けてくれ、タヒルの友人であるおじさんは窓を覗き込み、ひそめた眉のまま笑った。

「あなたは何がほしいですか?」

私は安息の心地よい波に浸った。この田舎のタイヤ店のおじさんは、昔日本でシルクロードブームが起こったときに日本語を学びバスガイドとして働いていたが、もう観光客のほとんどが中国人で日本人はめっぽう減ったからガイドの職を離れ、タイヤを売る店を開いたと語った。もう仕事にはしていないが、それでも時々日本語を喋れる自分を頼って友人や旅人が訪れてくれてくれることは嬉しいと言った。私はなんだか、優しい気持に満たされた。この人たちは、助け合って生きているんだな。これが、ウイグルなんだ。砂漠に囲われた厳しさのなか、豊かな葡萄畑に生きる人々。困ったらすぐ友を頼り、惜しみ無く助ける。そこには。彼らは普段はゆったりと仕事をし、既存の社会や宗教に多少の反抗を感じながらも毎週モスクに行き、礼拝の際に友と会い、握手を交わす。日常のことを話し、お互いのことを知る。友情を確かめあうといえば仰々しいが、彼らのゆるやかな友だちとの繋がりは、こういった風習により途切れることなく続くのだった。これが、ムスリムで、ウイグル人なのだ。砂漠と葡萄が不思議に融和すつ土地と、イスラムの文化から出で来た助け合いの精神。そこには……。近代社会を受け入れて伸長させてきた私たちが失った精神があった。私たち日本人にはまだ馴染みのないムスリムの、人と人とのあたたかい繋がりが、そこにはあった。スカーフを被った女性を四人も乗せたバイクが、楽しそうに話しながら通りすぎていった。

「ラムレーズンはありますか?」

私はやっと、日本語で聞いてみた。話してみると結局このおじさんもラムレーズンについては知らず、ここにはおそらくそんなものはないのだろうということになった。ラムなどなくとも、確かに豊穣の葡萄畑からはたくさんの種類のワインができるし、それで十分だった。愛らしい人々のつながりと豊かな土地。ここにはもうこれ以上望むものなどなかった。

人間の意志

 

私はあまり人に対して怒りません。怒らない人間というわけではなく、しょっちゅうキレ散らかしているのですが、問題は大抵個人ではなく、背後にある社会やその構造、コンセンサスにあるため、個人に対して怒りをぶつけることがあまりありません。

 

先日美容院に行った際、美容師さんが障害者・ホームレスに対する差別発言をしていました。
「田舎から出てきて、都会にはホームレスとかいてワーワー唸ってたり変な動きしてて怖かったw田舎にはああいうのいないから」
のようなことを言っていました。


私はそれに対して怒りを感じ、脳内はキレ散らかしていましたが、怒りの矛先はその美容師さんではなく、背後の社会に向いていました。
病気かもしれない人々をそのように放置する社会、ホームレスに対する蔑視感情、理解できないものは同じ人間だと思わない、人権に対する軽視。


このような社会的背景が、その美容師さんをスピーカーにして話していただけだと思います。だからこそ、美容師さん自身に悪気がないことを理解していて、個人に対して怒る気になれないのです。

 

人間はスピーカー。

 

私は長らく人間のことや人間の意志が信じれず、人々のことを自分も含め、社会が私達をスピーカーにして話しているだけと感じてきました。人間はスピーカーでしかなく、そこに意志はない。背後の社会を一旦無視して、人間同士の伝達に目を向けると、人間はコピー機でした。人間は他人の発言をコピーする機械にすぎない。そう思うことによって、人の悪意や不正義を、その人の本物の感情ではないと思うようにしてきました。

 

 

しかし、最近は全てにおいてスピーカーやコピー機では無いと気づきました。


人間一人一人には芯のようなもの、個性と言えるようなものがあると思います。人は社会の色々なものにもまれて生きており、それぞれの経験をしながら生きています。その経験に対して、自分の頭で、自分の言葉で、自分の個性で以て考え抜いて出てきた言葉には、真の価値があると思うようになりました。それは結果的に他の人間と同じ発言となっても、コピー機ではないと感じました。


先程の美容師さんの話でいうと、大地震で被災した体験とそこからくる話は本物だと思いました。


彼の実家は海辺の民宿であり、そこは津波で全部流されてしまった。その時耐震対策がされた少し高台にある某プラントが開放されて、みんなそこに避難していた。その工場に対しては地元の人間としては清濁合わせた色々な感情があるものの、その時助けてくれたことやそこで働いている人々の真摯さは忘れない、といった内容でした。
(なんで美容院でそんな話をしたかと言うと、地元の話になった時に彼の出身地(被災地)に私がいったことあり、人間の頭の高さまで津波が来たという標識を見たという話をしたからです)


人への感謝という話は非常にありきたりですが、実際の経験に裏打ちされた言葉には、彼の中で噛み締められ、心の底から出で来た真の力があるように感じました。

 

誰かのコピーではなく、社会のスピーカーではなく、自分の頭で、自分の言葉で、自分の個性で以て考え抜いて出てきた言葉には、真の価値があると思います。

 

美容師さんのはじめの差別発言に対しては、私は「理解できないものを怖いと感じる気持ちはわかるけど、その人は病気かもしれないし、同じ人間だとおもってその人の立場で考えて見たほうが良いかもしれない」とだけ伝えました。その人が自分で考え、蔑視も含めた自身の感情に向き合い、自分の力で気付いてくれることを願います。

 

 

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元旦の大地震で、私はとても心を痛めていました。自分ではどうしようもない力で人が亡くなってしまうことに、やるせなさを感じていました。


なのに一部の人間は、安全地帯に住んでおきながら、人の心配をするでもなく、人が亡くなっているかもしれない災害を自分の意見を強化する材料として利用していました。ものすごく怒りが湧きました。倫理観とかないのかと思いました。


何も知らないくせに。何も考えてないくせに。


しかもその発言に共鳴している人たちの多さにも愕然としました。コピー機ですよ。まさにコピー機でしかない。自分の頭で今何をするべきか考えろよ、なんでそんな簡単なことも出来ないの、と思いました。人が亡くなってるのに?


私は人間のことを信じたい。信じたいんです。

 

とてもつらくなったので、友人のアドバイス通りXアプリ消してます。タイムライン見れないようになってるので連絡はその他手段でお願いします。

えげつない祖父

 

 私は祖父を知らない。彼は50代で早逝した。どの孫の顔も見なかった。

 私は祖父がいわゆる昭和の怖い親父であるような話を聞いていた。しかしあるきっかけからとても興味深い人物に思えた。彼の若い頃を知るべく祖父の知己である松沢さんという方の居所を祖母に聞いた。電話もわからなかったので、私は失礼を承知しながらその住所に訪れた。念の為仏壇にあった祖父の写真を借りた。

 

 それは東京の文京区にある、大きな日本家屋だった。塀は漆喰かと思われる白さで、古い木の門には黒光りする金属の荘厳な加工がされ、たどり着くには石畳が連なっていた。その日は死ぬほど暑くて、太陽が漆喰を真っ白に反射させていた。門の前につくと木の表札に力強い楷書で松沢と書かれていた。恐る恐るインターホンを鳴らした。

「松沢一昭さんはいらっしゃいますか?」

「はあ、おりますけど。」

 私は祖父のことを聞きたいという用件を手短に伝えた。インターホンから「はあそうですか、ちょっと待ってください」と聞こえた。遠くの白い雲がゆったりと近づいてきた。しばらく待っていると、重々しく金属がキイ音を立て、門が開けられた。体格の良い初老の男性が出てきた。白いTシャツと赤い半ズボンを身に着け、頭は短く刈りあげられ、ガキ大将がそのまま大人になったような見た目だった。明治時代のようなちょび髭がその威厳になんとも不釣合だった。 

 「どうぞおあがりください。」インターホンと同じ声が発された。 私は後につづいた。門の先は入口の石畳がそのまま続き、その端は背丈くらいの竹林になっていた。家は立派な日本家屋だった。切妻屋根は奥まで真っすぐと伸び、釈薬瓦が力強く太陽を反射している。大きく堂々たる後ろ姿はこの邸宅の持ち主然としていた。彼は私に何も聞かず、私は邸宅に目を奪われて何かを切り出そうとも思わなかった。 

 「どうぞ。」と案内された玄関土間は広く、客席一式が置かれていた。正方形で角が柔らかく丸くされたテーブルに、直角の背もたれの椅子が置いてあった。ふすまを三つ通って客間に案内してくれた。漆が美しく輝くめずらしく入側縁で、庭園が広く見渡せた。

 私は促されてそこに座った。ガキ大将のおじさんは木に肘を置きながら話し始めた。おじさんはは祖父の友人、一昭さんの息子さんだそうだ。ます、わざわざ来訪してくれたことに礼を言われた。一昭さんは昭和3年生まれの91歳だ。彼はベッドで寝たきりだけれども、記憶以外は、年齢の割にははっきりとして、動くことも話す事もできるそうだ。おじさんは、一昭さんが私と話してもいいと言っていることと、私に大きな声で話すように伝えてくれた。

 靴を脱ぎ、家の奥に案内された。車椅子に座って、背中を丸めた痩せて小さい人物がその人のようだ。おじさんとは似付かない。このおじいさんは別の時代の人物を生きた人ということがはっきり見て取れた。堅く座った目で私たちの動きを追った。真っ白な髪が抜け切ることなく優しく彼に身についていた。

  私は挨拶して、来訪の目的を伝えた。つまり、私の祖父の話を聞きたいことを伝えた。おじいさんは私を見つめたまま動じなかった。私ははっとして、もう一度聞きたいことを伝えた。大きな声で、ゆっくりと。そして、私は友人の孫だと。

 おじいさんの表情が少し動いた気がした。彼の不動の目は少し青がかっていて、涙丘のそばに老木のような瘤がある。肌は皺の一つ一つが年輪のように重なり、90年を超える長い月日を思わせた。

 私の祖父が亡くなったのは正確には56才だ。彼はそれ以上歳をとらない。彼の時間はそこまでで、それ以上の祖父のことは誰も知らない。祖父の時計はピタリとそこで止まり、それが完成された形として残された者たちの記憶に留まっている。なのに祖父の友人であるこの人が、未だ未完成のままこうして長く生き、時計を動かし続けていることが不思議に思われた。年齢の数以上ありそうな皺を動かさずに止まっていた。

 突然流れ星のようにおじいさんが大きく目を開けた。そしてゆっくりと元の表情に戻り、呟いた。

「おお、叶野か。叶野貞治。あいつは力のあるやつだった……。 」

 

  感激の身震いが顔から肩を通って身体中に伝わったのが見えた。おじいさんは郷愁の波に流されそうになるのを意志の力でせき止めて、私の目をじっと見つめた。

 

「君は貞治の孫なのか。」

 おじいさんの目。顔は皺で折り畳まれているのに、青く滲んだ小さな瞳には力が宿ったように見えた。目だけは年を取らない人がいるのだ、と初めて知った。

 その語気は若さが滲みはじめ、次第に力強い一人の青年の告白を聞いているような気持ちにもさせた。未来のある清らかな目をしていた。年月による忘却か感情の氾濫のためか少しつっかかえながら話してくれた。未来のある明るい若者の話し方だった。

 私が貞治と会ったのは、遠い昔、私たちが高等学校の時分だった。貞治は特異な人物だ。彼はいつも一人でいたが、その存在感は雷のように輝いていた。

 少し吊り上がった目は何を言っても説得力がある。背丈は普通だが顔が小さいゆえに彼の美しさと存在感は増している。彼は小さな商家の生まれであった。当時高等学校に通ったのは僕らのように華族や国会議員、弁護士の家がほとんどだった。ただ彼は肩身がせまいと感じたことはないようだ。家は裕福ではないが、学業に秀でた彼は家では誇らしいと思われていたようだ。彼は普段誰ともつるむことなく、いつもどこかへふらっと消えていった。

 授業では先生の目を盗んでは本を読んでいた。変わり者ということで通っていたが、寡黙ながら愛想がよく、誰ともつるまないが話しかけるとなんでも打ち解けるように語った。私が彼の中で一番仲がいいのではないか、と誰にでも思わせるような愛嬌があったと思う。実際彼は友人多かった。私も彼と時たま話した。すぐに分かったことだが、奴は試験の成績の割には学に励んではいなかった。むしろ本を読むことを好むだけで、よく熱心だと勘違いされるようだった。その勘違いは便利だから特に打ち消したりはしなかった。彼は多くの人に漏れずに試験が嫌いだったが、他の友人たちとは異なった方法で憎んでいた。試験が迫ると教室は普段とは異なった様相になる。勉強のために休憩時間に机に向かう者たち、内心冷や汗をかきつつそれを嘲笑する者たち。試験という圧力から視線が錯綜し、教室全体が妙な緊張に押し込まれた。彼は必ずそういった空間から一目散に逃げいった。大抵どこか日陰で小難しい名前の論説や厄介なフランスの小説を読んでいた。ある時また木の根に寝転んで本を読んでいた。私はそこに歩み寄り、彼に聞いた。

 「お前は試験前も普段と同じように過ごしているが、家では勉強しているのか。」

 貞治は読んでいた本から黒い瞳のみをこちらに動かした。その跳ねた目は挑戦的な調子を持っていた。

 「馬鹿らしい。僕は人生に興味がないから学問をするんだ。」彼は読書に戻った。

 学問というのは身を立てるために行うものだと儒教の頃から教えれている。世界の仕組みを知ること。人間の考え方を探求すること。人々が作った仕組みをよりよく理解すること。特に彼のような裕福でない家の出ならば家族に期待されて社会的な成功を夢見るものだ。少なくとも己の意志を持って良い人生に向かおうと試みる。

 貞治はその点もかなり異なっていた。

 読書の時間を延ばすべく、弁護士を志すという体で帝大へ行こうとしていた。当時のあの小さな家ではかなり尖った性質だと思う。その割り切ったさっぱりとした正直が人を惹きつけた。のちに私も彼も大学予科に進んだ。世は太平洋戦争が始まっていた。

 

 僕たちの多くは世間の波とは隔離されたように学校の日々が続いた。 僕の周りは誰も招集されなかったし、当たり前のように学課や試験が課された。ただ裕福でない家の者は親戚が軍隊に行ったりなどしていたようだ。貞治も家は富有ではないはずだが、そのような話は一切しなかった。自分は所謂エリートだから兵役を免除されている。しかし従兄弟は戦争に行く。親族のため、家族のため、国のため、己の役割を果たそうと努力していた。実力でのし上がってきた者は大抵真面目・勤勉だ。努力家は真面目同士で輪をなした。貞治を除いては。僕らは友人として身分で差別することはなかったが、ある種潜在的な優越を持って生きていた。僕はある時優越の輪のうち一人が、貞治にに突っかかっているのを小耳に挟んだ。輪の中から吠えるのは子犬のように滑稽に見え、正直に言うと、興味を持って耳をたてた。

 「叶野、お前の家はお前を育てるため身を削っているのに役に立たない本ばかり読んで許されると思っているのか。家にも国にも恥ずかしくないのか。」

 私は犬がかみ合うような喧嘩が始まるのを想像していた。しかし貞治の答えは異様だった。

 「俺はこういう人間なんだ。それを恥じる気は無い。」

 「俺が言いたいのはな、お前は華族の生まれでも学者の家でも何でもないのに傍若無人なんだ。そんなことは許されない。」

 「許さないのは誰だ。お前が気に食わないだけだろう。」

 意表を突かれたのか、子犬はしょんぼりして輪に戻っていった。

  私はこれを見て爽快な気分になった。同時に己の狭量を恥じた。私の興味は、子犬のたちの醜い争いを身分の高みから眺めることだった。しかし、貞治はその上を行っていた。人間の小競り合いの外にいて、いわば雲の上を飛んでいるような奴だ、と思った。

 

 そんな平凡な学生生活は突然終わった。戦争が佳境に入ると、学生たちの疎開の意図も含めたのだろう、私たちは学校ごと田舎に移された。私は遠足のような気持ちでいた。世の中の戦争という事情は、私たちにとってはラジオから流れてくる音声、新聞から得る写真でしかなく、現実味に欠けていた。この年齢でも周りの誰もが召集されない。この予科に在籍する多くは高額納税者の子息で、未来の有望な若者だったから。遠くへ行くことが決まって、長期間家を離れることが稀であった私や友人たちはどことなくそわそわした。今起こっていることも、これから起こることを理解していなかったのだろう。いや想像力が欠けていたといった方が良い。我々は乗ったこともない2等の電車に飛びついた。車窓から田んぼが見えたり、駅に到着するだけで車内は湧き上がった。現実を知らない若者の、非日常の喜びで満たされていた。

 私や貞治は同じ兵器工場の配属だった。我々数十人は整列をさせられ、工場長から歓迎の挨拶があった。例によってこういった話は退屈でで中身がなかった。最後に君たちのような若く有望な諸君が国のためにここに来られたことを誇らしく思うと締めくくった。貞治は聞こえるくらいの音で鼻で笑って僕は肝が冷やされた。

 工場は非常に大きかった。

 有望な生徒たちは、国のための勉学から国のための鉄砲づくりに方向に変え、真剣に従事した。彼らは貞治はもともと小さい作業のようなことが得意だったようでその作業に苦はなかったと見える。寄宿舎に帰ると少しの飯が用意された。まわりの生徒たちは作業の効率化、よりよい銃器の製造法、など熱心に議論しあった。黙々と作業する時間長く、彼は本から切り放されている分思考する時間が大いにあった。それは彼にとってとても良かった。貞治は少しずつ無口になっていった。頭の中だけの思考は自由だった。疲れた時は音楽を脳にけた

 ある夜貞治は語った。

 「あの工場、僕たちが来るまでは誰が居たと思う。」

 私は彼を見た。そんなことを想像すらしなかった。彼が何を言おうとしているか何となくわかった。考えにも及ばなかった自分を恥じた。彼は続けた。

 「僕たちが次にそうなることはないだろうよ。この学校の親たちの身分を考えれば。でも、これだっていつまで続くか、わかったもんじゃない。時代が時代だから仕方ないことだが。」

貞治はさらに寡黙に作業するようになり、紛れもなく工場内で一番の腕となっていた。それは他人には大変真自面に映り、彼はさらに重宝されるようになった。しかし貞治はますます寡黙になっていった。彼の頭の中には読書と思考があった。友人たちはトップの彼から業を盗もうと話しかけた。

  あるとき彼は私に漏らした。

 「ここでは本が読めないから想像力と音楽だけが生きがいた。」

 彼は黙っていたが、そこであまり馴染まなかったのだ。 それはそうだ。世間に興味のない飄々とした学者気質の奴が、たとえ器用だったとして、国のために兵器を作っていて平気なわけながない。

 

 「負けるよ。」

 ある時貞治は突然言い放った。その途端熱い工場が凍りついた。工場の全ての手が止まり、全ての目が彼に向いた。本当は誰もがそのことを暗に感じ、それでも決して口にせず、前を向いて今の仕事に真摯に向きおうとしていた時だ。 

 「なんだ君たち。勝つとでも思ってたのか。」

 彼は失笑した。僕らは唖然として彼の一挙一動に注視した。 

 「こんなことはやめだ。俺はこんな虚無に付き合ってられない。」

 手に持っていたトンカチをそばに投げ、彼は出口へ向かって行った。音楽のように激しかった工場は静寂に包まれ、彼の通り過ぎていくところをみんなが見ていた。

 工場長が「戻った戻った」といって再び作業が始められた。工場内は騒がしくなり、一見元の活気が戻ったようだった。貞治の作業場以外は。私たち皆の心には大きな黒い穴が静かに残された。貞治の作業場は誰もいないことによって、より多くのものを語っていた。

 我々は精神的な基盤を簡単に変えてしまう。鍵穴の形にあわせて自分自身を簡単に変えて生きていく。それが友人であれ上司であれ社会という大きな流行であれ、世間の人は相手の要求に応えて変幻自在に。それが生きていく術であり、人々から尊敬される条件なのであろう。然るにこれが幸せになる一番簡単な方法だ。自分の芯を持たず、世間の風向きが変わるたびに価値観を臨機応変に操るのが生きやすいのだ。 

 それから誰も貞治を見ていない。探す気力も失せてしまう、彼はそんな去り方をした。

 

  半年ほどのち、果たして貞治が言った通り、日本は負けた。天皇の放送を聞いて謝ったり泣いたりする者は多くいたようだ。日本全体が苦境が終わった安堵と敗北感に打ちひしがれていたときだと思う。対して僕たちの工場は、全員が夢うつつなのかというほどぼうっとした空気が流れていた。貞治が言い放った虚無が私たちの心の中で芽生え、育ち、その訪れを待っていた。本物の虚無となり、春を待つように終戦を待っていた気もする。彼は特高に捕まったという噂もあったし、自殺したという噂もあったが、私は彼が何処かで生きているだろうという希望を持っていた。しかし二度と会うことはないとも思っていた。

 

 どんなに仲の良い人間であっても、人は会わないと記憶が薄れる。私は家のことで忙しく、終戦のあとのごたごたで彼のことを忘れかけていた。そんなとき、突然彼はこの家に現れた。

 彼とは積年の話がある。誰だって戦争という巨悪に巻き込まれ、物語を持っている。貞治は、あのあと、工場を去ったあと一体どうなったのか。生きていただけでも驚きである。

 貞治は終戦まで木こりをやって自活していた、そう言い、それ以上は何も言わなかった。彼が訪れた理由は、印刷業を始めるから出資してほしい、ということだった。私は上の空で承諾した。

 山で木こり……。

 彼が去ったあと、頭の中で何度も反芻された。戦争中であるにもかかわらず、工場を去って、特高もすり抜けて、自由に暮らしていた、と。戦争とはそのような馬鹿らしいものだったのか。実に皮肉だ。貞治らしい。

 

 日本が戦争に負けたから貞治はよかった。焼き崩された東京の街のように、それまでの価値観がぐしゃぐしゃになり、新しく作り直さなければいけないからだ。貞治は元々負けると予想していたわけだが……。

 そしてあの学者気質の貞治が、商売を始めるという事実に、現実のままならなさも感じていた。彼は語らなかったが、お家柄苦労して入った大学を戦争によって放り出され、戻れなかったということだろう。

 その後、貞治は商売に成功し、家をもうけ、子女を学者になるまで育てた。あのような骨のあるやつは他におるまい。

 

 おじいさんは、ゆっくり話し終えた。昔を思い出し、満足したのか、そのまま幸せそうに眠ってしまった。

大きな日本家屋から出ると、空の青さ、夏の日差しをとてもまぶしく感じた。

 

狂気について

 

生きていると、沈んでいく。朝起きて、歯を磨いて、ご飯食べて、毎日の義務をこなし、風呂に入り、寝る。同じところに住んで、退屈が身体の内側から腐っていく。ありきたりの趣味で時間をつぶすと、指から砂のように溶けていく。同じことばかりしていると、価値のない永劫回帰を思い知らされる。

そこで私は人生に少しの狂気を取り入れて、風通しを良くすることで、生の延長に耐えることとしている。

しかし、狂気というやつは、はじめこそ狂気と感じられるものの、継続してしまってはただのありふれた日常と化してしまう。

これまで私が継続してしまった狂気と、一度きりの狂気を思い出すことで、床の染みと化した現在をいかに狂いで満たし生を延命させるか、考えてみたいと思う。

 

継続狂気① プーを飼う

プーと呼んでいるのは、ディズニーのプーさんというキャラクターの90cm(とてもおおきい)のぬいぐるみのことです。当該プーがうちに居候しており、長年飼っています。飼うと表現するのは、プーが3mの巨大クマになるまで、ご飯を与えたり、海を見せたり、庭園でのんびりしたり、一緒に旅行したり、立派な大人になってもらえるように様々な経験をさせてあげているからです。

はじめこそ、プーを外に連れて行ったときは頭が狂ってるんじゃないかと思いました。心が弱い人間と勘違いされて宗教勧誘されました。しかし、毎日一緒に暮らし、よろこびを分け合う中で、完全に日常と化していき、プーと喫茶店に行くのも何でもないありふれた毎日になってきました。プーを飼うことが狂気というよりは、プーを飼うことによって正気を保つようになってきました。

一度きりの狂気① ユーラシア大陸横断

学部のときに、トルコから中国までユーラシア大陸横断をしました。足を踏み入れた国は、ロシア、トルコ、イラン、カザフスタンウズベキスタンキルギス、中国。移動距離3万km。横断の理由は、今行くしかない、と思ったからです。毎日鬱屈とした生活を送っており、専門外の勉強をする以外何をするでもなかった時に、自称耶律阿保機と名乗る東大生を友人に紹介されて、その人今キルギスいるよと言われました。じゃあ行くか、ついでに知りたかった国全部行っとこうということで、航空券から複数国のビザまで全てを1ヶ月ほどで手配して、行ってきました。元々世界史、特にペルシャや中国の辺境民族の歴史が好きで、憧れがありました。なお、旅行自体は日常の延長感があってあまり好きではありませんが、大陸横断は文化の変化目まぐるしく面白かったです。

継続狂気② コウテイペンギン至上主義

2023年9月に、コウテイペンギン至上主義(英:Emperor Penguinists)という環境保護団体をはじめました。コウテイペンギンを崇拝し、コウテイペンギンはいればいるほど良いという理念のもと、コウテイペンギンの減少を止めるため、海洋動物全体の保護活動に取り組む団体です。南極を含む地球環境は年々悪化しており、我々は危機感を持って野生生物の保護に取り組みます。理念は異常ですが、中身は真面目に環境問題や研究・教育活動を行っています。

ホームページ↓

https://emperorpenguinism.com/

 

一度きりの狂気③ コウテイペンギンになる

コウテイペンギンが尊すぎて、コウテイペンギンになりました。コウテイペンギンの姿で、遊びや会社に行くなどあらゆる社会活動を実施していました。

継続狂気③ 京都の亡霊

京都で大学を過ごした人は京都の亡霊になると言われていますが、私も例外なく京都を思い続ける妖怪となってしまいました。なおこの話は時効になるまであまり詳しく書けません。気になる方は左京区を深夜に飛んでる火の玉に話しかけてみてください。「まから」が合言葉です。

一度きりの狂気④ 語学

語学ほど続けないと意味のないものはないですが、かつてフランス語、ロシア語、キルギス語、ドイツ語に手を出しました。大学サボって勉強しまくったためフランス語は2ヶ月半でフランス語検定2級筆記に合格したのですが、今はもう怪しくなっています。因みに英語もかなり怪しいです。

 

そろそろ書くの飽きてきました。ここから箇条書きにしていきます。

 

一度きりの狂気

⑤ 卒業式で本になる

⑥ 家の床を宇宙にする(賃貸)

⑦ 仁和寺の法師ごっこ

⑧ 南無大師遍照金剛スタンプの作成、家で護摩行を実施

⑨ 何とは言わないが、大学美化活動

⑩ 鞍馬天狗になる

 

継続狂気

④ 拾った動植物をその場で食べる

⑤ 一人バレーボール(自己啓発

⑥ 遊牧民になる

⑦ 半年に一度引っ越す

⑧ 寺で修行

 

まとめ

過去の異常行動を振り返っているとただ単に懐かしくなって思い出に浸りはじめてしまいました。

振り返ってみても、やはり、はじめて何かを実施するときは、霧が晴れ、朝日が輝き、はじめて色が見えたように世界が美しく見えるものです。しかし継続してやってることも一度やったことも、はじめてでなければ当たり前のことになってしまいつまらない日常に沈んでいくもののです。

つまり、振り返ってみても何も得なかったわけですが、何か面白いことやりたい人は声かけてください。

Arezou

イランのテヘランでバスを待っていると、若い男性が話しかけてきた。どこから来たの、自分はイランどこどこの出身で、など他愛もない話をしていたら、英語が話せる色んな人が集まってきた。その中のひとりにArezouという女の子がいた。彼女はゴルガーンというテヘランから400キロところに住んでいる、ぜひうちに来てほしいと言ってくれた。イランでは色んな人が家に招待してくれた。客人を招くのは文化であり見栄でもあり、本当に呼んでいるわけではないと後で聞いたが、私は何も知らなかったので、ありがとう!!!!と言ってそのまま泊まりに行った。旅人の暇人は、ビザが許す限りどこにでも行ける。彼女はご両親や弟さんや、友人を紹介してくれた。彼女は建築の勉強をしており、フランスで建築家になりたい、と言っていた。わたしたちは彼女の友人の車でドライブにでかけた。田んぼの風景が広がり、森が広がり、日本かと思った。中東は砂漠やオアシスのイメージがあるけれど、イランのカスピ海付近は稲作をするほど豊かな土地でもあることを知った。彼女とはかなり仲良くなったが、彼女は私が誰にでもついていきそうな旅行者であることを心配していた。

Arezouと次に会ったのはフランスである。私は旅行に行ったあとに語学にハマり、フランス語とロシア語をひたすらにやっていた。そしてフランスに行った。フランスでは階級社会と人種差別を露骨に見た。私は宿代をケチるためにパリ郊外で過ごしていたが、そこはアジア系移民がたくさんいる地域で、治安が悪いとされていた。白人の友達にはそんなところ泊まるくらいならうちに住め、とすら言われた。私はベトナム出身のカタコトのフランス語を話すおじさんに助けられたりしたのでここよりパリ中心部のが治安悪いと感じていたが。ただ白人のお爺さんに差別用語を言われりはした。ここは留学など身分保障付きでくるべきところだな、と思いつつ。Arezou はそんな階級社会で移民として生きていた。彼女は、リヨンの大学でフランス語の学位を取ったあと、個人事業として建築デザイナー事務所を開業、しかしそれでは生きて行けないためスーパーでアルバイトをしていた。なんというか、人生がままならないものであり、大人が皆平均に回帰していくことに、とても悲しい気持ちを覚えた。

温泉街

 

ほくほくの湯気

漆喰の白壁

渋い木の屋根

オレンヂのガス燈

 

大正モダン

赤、青、白、雪駄

ビー玉きらきら

 

昔はすべてが美しかったのか

残されたものだけが美しいのか

考える

 

東京に戻って

箱のような家を見ながら

考える

 

美しいものだけ見て生きていたかった

 

 

こんにちは、暗闇

こんにちは、古い友達

彼は自由な人だった

皆に笑顔を返しながら

だれにも届かない場所へ行っていた

 

いつからだろう

自分が自分であることに価値がなくなった

あなたがあなたであることに価値がなくなった

いつからだろう

 

それはわかりきっていた

それがくるのはわかりきっていた

ほんとうは

見ないように力を尽くした

逃げて逃げて、逃げ切れる気がした

自分は自分のものだとおもっていた

思いたかった

あなたも

 

わたしは捨ててしまった

車輪に押しつぶされてまで

車輪と一緒に走る

価値に巻き込まれる

これでいいと言い聞かせる

 

少年の日の思い出

夏の草のにおい

川に飛び込む

これが本物なんだ

これが、本物なんだ

ノスタルジアの主題と水の表現

 

第1章: 導入

ノスタルジアとは普遍的な、全人類的な感情である。しかし、タルコフスキーが述べるところによると、ロシア人にとってのノスタルジアはより深く、根深いものである。

「ロシア人は、新しい生き方に簡単に適応することはめったにありません。同化することへの彼らの悲劇的な無能力、異国人の生活様式を採用する彼らの努力の不器用な無能さを知っています。ノスタルジアを作っているときに、その映画のスクリーンスペースを埋め尽くす息苦しい憧れの感覚が、私の人生の残りの部分になることを想像できたでしょうか。」

タルコフスキーの述べるノスタルジアとは、懐かしさや過去への渇望だけでなく、生の基盤が引き剝がされた感覚がそこには読み取れる。タルコフスキーが描いた病は、故郷と引き裂かれ、単に異国から祖国を思う病だけではない。それはまた人間の、自分自身からの、または自分のルーツや大地からの疎外の表現でもある。ノスタルジアが表したのは一個の人間が思想・行動の限界に直面し、絶望せずに生き続ける方法を模索する格闘である。

ノスタルジア』は、1979年に公開されたアンドレイ・タルコフスキー監督の映画で、彼の故郷であるロシアを離れた脚本家が、イタリアの風景に触れながら過去の思い出と向き合う物語である。映画は彼の内面の葛藤や人間関係を独特の映像美と哲学的なテーマを通じて描き、ノスタルジアや過去への渇望の感情に深く迫っている。この作品はタルコフスキーの代表作の一つとして高く評価されている。

本作品には水が象徴的に使用されている。温泉場、雨、廃墟など水の表現が使用されている。本書では、タルコフスキーの水の表現と主題との関係性について、詳述する。

 

 

第2章: 水の象徴としての意味

水の使用は詩的なものであり、視覚と無意識への刺激の到達を促す。

ノスタルジアに出没する霧は喪失感と叙情的な憧れを感じさせる

ノスタルジアでは、壊れた壁と溜まった水は、現在からの鬱病と分離の状態を示唆しており、それは非常に蔓延しているため、ほとんどすべての風景が霧や雨に覆われている。

  1. ドメニコの家

ノスタルジア』に出てくる水の表現で、何よりも印象的なのはドメニコの家であろう。ドメニコの家は、アンドレイの精神の亀裂を表している。屋根は隙間のある穴でいっぱいで、建物の内部は外部の自然の兆候(草や水)と混ざり合っている。心の内部の肖像画、思考のプール、多孔質の壁、不安定な境界をスケッチする半開きの部屋もそれを強調する。壊れた壁と溜まった水は、現在からの鬱病と分離の状態を示唆しており、それは非常に蔓延しているため、ほとんどすべての風景が霧や雨に覆われている。

  1. 温泉場

はじめて温泉場にいるシーンでは、湯気が立ちこもり、人々の話し声は聞こえるが、姿や顔は見えない。これはアンドレイの実際の関心による感覚を示している。

アンドレイがノスタルジアに襲われるとき、マリアと涙を流したエウジェニアの抱擁するシーンを見る。これはロシアとイタリアの融合、まさにアンドレイが夢見た「国境をなくすこと」を指しているが、マリアは悲しみの表情で涙を浮かべている。

  1. 廃墟

廃墟では、アンドレイが、アルセニー・タルコフスキーの作品を口ずさむ。天使を語源とするアンジェラという女の子からわかる通り、ここは現実ではなく精霊的な体験である。アンドレイは頭から水に浸りながらロシアの寓話を話すがその顔は、作品中唯一笑顔を見せている。水によって大地との「境界をなくす」ことであるかのように、大地と溶け合っている。水がアンドレイの身体を包み込み、浄化や再生の象徴として描かれている。

  1. 温泉場を渡る場面

最後のシーンの温泉では、ろうそくを持ったアンドレイが温泉場を渡る。火が消えないように慎重に、一歩一歩進む足音が温泉の水の厳かな音で表される。観客はこの荘厳なシーンによって、魂の浄化を追体験することになる。

ノスタルジアのイメージの中で、娘が犬と遊び、犬が池の中を走っていく。故郷の美しい思い出であり、その水の勢いには喜びを感じることができる。(なお、ドメニコから解放された家族が警察の靴にキスをするシーンでもあふれる牛乳が歓喜を表している。)それと呼応するように、最後のシーンでは、アンドレイと犬が故郷の家を背景におり、その姿が池に映し出されている。

最後のシーン、イタリアとロシアが融合した世界には雪が降る。この「国境がなくされた」世界全体に降る雪は、その境界をかき消し、アンドレイの夢を具現化する。

 

第3章: 水の表現手法と映像美

タルコフスキーは水の表現において、独自の映像的手法を駆使している。以下にいくつかの代表的な手法を挙げる。

  1. 鏡面効果:水面を鏡のように扱い、映り込む景色や人物を映像に取り込む手法を多用する。これにより、水が現実と夢幻の世界をつなぐ境界線として機能し、観客に奇妙な感覚を与える。
  2. 静止画の使用:タルコフスキーは水を静止させた状態で撮影し、静止画のような映像を作り出す。これにより、時間の流れや記憶の揺らぎを表現し、観客に物悲しい美しさや不確かさを感じさせる。
  3. ゆったりとしたカメラワーク:水の流れや波紋をゆったりとしたカメラの動きで捉えることで、静寂さや浮遊感を演出する。これにより、水の存在感や儚さがより強調され、映像に独特の詩的な雰囲気が生まれる。
  4. 音の使用:水の音を重要な要素として取り入れる。滝の轟音や雨の音、水の流れる音など、水の存在を視覚的な映像とともに聴覚的に体験させることで、映画の世界に没入感を高める。

これらの手法は、タルコフスキーの映画作品に独特の雰囲気と情感をもたらし、水の象徴的な意味や物語性を表現する役割を果たしている。彼の映像的なアプローチは、観客に深い思索や感銘を与える一方で、美的な視覚体験を提供する。

 

また、水の音響効果も重要な要素である。滝の轟音や雨のしずくの落下音、水面を泳ぐ音など、自然界の音が鮮明に再現されることで、映像に臨場感とリアリティを与える。これにより、観客は映画の世界に没入し、水の存在感をより強く感じることができる。

独特の映像美と音響効果は、観客の感情と相互作用し、物語性を高める。水の静寂さや流動性、浄化や再生の象徴といった要素は、ノスタルジアの感情や時間の流れの揺らぎを象徴しており、観客の共感や思索を引き起こす。このような映像美と音響効果の組み合わせによって、『ノスタルジア』は深い情感と独特の雰囲気を醸し出し、観客の心に残る作品となっている。水の流れや反射、光の表現を通じて伝えられる感情や物語性について解釈する広がりを作品はもっている。

 

第4章: 結論

本書では、アンドレイ・タルコフスキーの映画『ノスタルジア』における水の表現について検討した。

映画『ノスタルジア』において水は、アンドレイの内面を象徴的に表現する要素であり、鬱屈とした内面や、喜びなど様々な感情を表現する。また、水は浄化の象徴としても機能し、苦痛な儀式による魂の浄化を表す。

 

タルコフスキーの独特な映像言語と水の表現は、観客に対して深い響きをもたらす。水の映像美や音響効果は視覚的・聴覚的な感動を生み出し、鑑賞者に水の象徴としての意味や映像の美しさを体験させる。これにより、鑑賞者は自身の時間の流れや記憶の揺らぎ、浄化や再生への思索に共感し、ノスタルジアの感情をより深く理解することができる。