ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

雪の貴船神社までプーと百万遍から歩いた (15.2 km)

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白が積もる柿 厚さを踏む音 身体の内から火照る吐息

遠山にかかる綿雪の霞 悲しい鳥の鳴き声 靴の裏から伝わる冷たさ

 

はじめに

一昨日未明から昨日まで、京都に雪が降りました(2020年12月16日〜2020年12月17日)。京都は一年に一度雪が降るかどうかの気候のため、雪化粧した京都というのはとても貴重なものです。

その美しさを堪能するために、私たちは百万遍を午前3:30に出発して貴船神社まで歩いてきました。土地勘のある人ならどのくらい遠いか検討つくと思いますが、行きしな15.2 km でした。ただ私は先月エクストリーム帰寮※に参加して50 km歩いたので感覚がバグっててまあ余裕だろうと思ってました。実際はGoogleでは2時間40分で着くと書いてあったんですが、遠回りと休憩と足が死亡していたため4時間ちょっとかかりましたね。雪が降るくらいなので、氷点下でみんな凍えていました。今回私はプーも持っていたためかなり肩が疲れました。でもプーはあったかかったです……。

 

※エクストリーム帰寮:京大熊野寮の寮祭が主催したイベントで、深夜に寮から数十キロの場所に車で連れられて、地図を見ずに頑張って歩いて帰るイベント

 

行きは大粒のボタン雪が降ってたこともあり、ほとんどプーはレインコートの下に隠れて寝てました。それゆえ途中までほぼプーの写真はありませんが、北に行くにつれてだんだん深くなっていく雪の様子にぜひ注目してください。空が明るくなり始めると、奴はぬくぬくとたまに起きたり、コートの下に再びひそんだりしてました。

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奴と放浪者


行き

百万遍〜北山 (4.3 km)

 

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百万遍で集合したんですが、人を10分待ってるだけで凍えるほど寒かったです。冬ってすごいですね。

北山駅って京大から近所の範囲だと思ってたんですがまあまあ遠いんですね。

 

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北大路より北の疏水付近。積雪は1 cmくらい。

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白に刻印する自分たちの足跡

北山〜京都精華大学前 (3.1 km)

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荒れ狂うように大粒の牡丹雪が降りました。みんな頭に粉砂糖をまぶした人間みたいにになっていました。ここはまだ積雪は薄く、歩いても足跡でコンクリートが顔を出します。

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この余裕の表情。すこし雪が深くなった。

途中からさらに気温が下がり、雪を踏み締めるギュ ギュ という鈍い音に変わってきます。

 

京都精華大学前〜市原 (3.2 km)

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ここら辺にくると5 ~ 10cmくらい積もっているのではないでしょうか。京都市東北部クリーンセンターが見えます。少しずつ空が白んできました。降雪はやみました。

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雪遊びする私たち

市原〜二ノ瀬 (1.3 km)

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たくさんの幸せで満たされている情報です。ここら辺からは家が減って行きます。雪、深いですね。

 

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 ぷーちゃん起床

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お鼻に雪ついちゃったね。。



二ノ瀬〜貴船口 (1 km)

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ここら辺は民家がなくなり、右も左も山になります。雪で柔い木は枝垂れています。倒木も多くみられます。
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雪の帽子をかぶるバス停 (と映り込むプー)


 

貴船口貴船神社 (2.3 km)

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貴船口!やっと到着しました。ここまで約3時間半、氷点下を歩いていました。ぷーに雪降ってる。ぷーちゃん到着できて嬉しそう。お前は背負われてただけだろ……。

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道中はこんな景色。もう完全に雪国です。貴船口貴船神社はまあまあ傾斜があるので疲れた足に留めを刺されました。


貴船神社

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ついた〜〜〜〜〜!!!!!!!!!積もっていますね。

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 なんかいるね。実はこの時始発バス到着組と出会い、いろんな人と会いました。みんなぷーを可愛がってくれました。ありがとうございます。あとプーを座らせたら全員が一斉にカメラが構えてウケた。ぷーちゃんはアイドルか。

 

みんないろいろなところから来て、自転車、歩き、バスなど別の方法で参り、そしてお互い知らない元の生活にみんな帰っていきました。そういった人びととが、偶然同じ場所に集まって、同じ景色に見惚れて、同じ時を共有すること、何だか不思議に思いました。

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階段の上、お馬さんにも雪が積もってました。ぷーちゃんみんなから愛されて調子乗った顔してる。

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アアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!

プーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!

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 表情が凍ってる

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お馬さんとおそろだね。よかったね。

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その後プーはこれになってました。

 

帰り

帰りは流石に歩きではなく電車使いました。

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顔死んでる。叡電の中。今叡電は市原から鞍馬まで通ってないので注意してください。

冒険の終わり

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出町柳に帰ってきました。私たちの冒険は終わりです。これは出町の純喫茶ゴゴさんです。プーのこの満足顔。偉業を達成しましたみたいな。まるで自分で歩いて行ってきたかのような見事なドヤ顔。

いやゆで卵の前でドヤ顔されても。

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モーニングいただいてもまだお腹空いてたので、ぷーにおでん支給しました。

 

 

 

プー 雪の貴船神社編 --fin--

 

「シルヴィアのいる街で」解説 映画の印象派としてのホセ・ルイス・ゲリン

 

 ため息が出るほど美しい、というのは平凡な表現ですが、シルヴィアのいる街はその言葉がぴったりな映画だと思います。この映画が私たちに開示する映像美と爽やかな心情は、外界と内面の優美な均衡をもたらし、どこか美しい異国へ誘われていった感覚をもたらします。芸術というのを、純粋に美しさを提示するものだとすれば、これは視覚・聴覚芸術である映画において本物の芸術作品だと思います。この映画は、ストーリーや主張を極限まで廃して、高次の形式の美しさを画面全体に豊かに表現されています。その表現の絵画性と音響のモチーフの奏でる音楽はこの映画を洗練された芸術の高みへ並べます。

 

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シルヴィアのいる街で 唯一の言葉

目次

1.あらすじ

2.映像の印象派

・純粋な美しさ

・映像の印象派

・凝視の視点

・鏡

3.ソナタ形式の自然音

4. 見ることの魅力と恋

 

1.あらすじ

 ご覧になった方ならすぐにお分かりなように、この映画のストーリーは極めて単純です。言うまでもありませんが映画のジャンルには様々あって、人を楽しませるためのものや、人間の醜さに焦点を当てたもの、メッセージ性の強いものや特定の感情を喚起させるもの、政治的意図や耳障りのいい文句の溢れたものなど無数にあります。この映画に関しては、物語や主張をなくすことによって一時間半の長いフィルムが美しい風景へのささやかな旅路として円熟しています。

 

【シークエンス】

この映画は物語性が薄いので、シークエンスとストーリー二つであらすじ解釈を分けます。

第一夜 主題の提示(ホテル、街並み、カフェ、les aviateur)

第二夜 主題の発展(カフェ→シルヴィアの発見、街並み→シルヴィアの追跡、les aviateur→新たなシルヴィア)

第三夜 主題の再現(ホテル、街並み、カフェ、les aviateurにいた人々、シルヴィア)

 

情緒的な面は次で詳しく説明します。

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シルヴィアのいる街で 揺れる髪

【ストーリー】

 主人公は6年前の恋人のシルヴィアを探して彼女のいた街にやってきた青年。プロットでは彼は『彼、夢追い人』とされています。

 彼はカフェで様々な人に視線を投げて、デッサンをしていました。シルヴィアを探しながら。様々な人を見つめて観察するうちに、赤いタンクとスカートで白い肌を煌めかせた美しい女性を見つける。はっとした彼は彼女を追いかけます水。彼は迷路のような街を長く追いかけました。裏道、大通り、公園、店舗、駅のプラットフォーム。彼は彼女を追いかけますが、声をかけることはしない。私達は、彼女はシルヴィアなのか?という疑問を頭に浮かべながら、青年と美しい街を歩みます。

 長い追跡劇ののちに彼女は路面電車に乗りました。青年も少し離れたドアから乗車します。電車が動き、青年ははじめて彼女に話しかけました。「貴方はシルヴィアですか?」「いいえ。そんな名前じゃないわ。」人々はこのシーンにたどり着くまで一切会話をしませんでした。少なくともストーリーの文脈の上としてはなされませんでした。しかしここではじめて彼が彼女と話し、観客にや青年自身に様々な思いが明らかにされます。彼女は彼の追跡に気づいていたこと。青年が彼女をシルヴィアだと思いこんでいたこと。こんなことすら観客にとっては初めて確信となります。「ずっと追いかけてきてとても気味が悪かったわ。」女性はとどめを刺します。「それに私がこの街に来たのは一年前。私は彼女ではないわ。」そして詰ります。「長いことつけられて君悪かったわ。」彼はこの動揺で「6年前、君は少し若かった。」などと余計なことを言って彼女を困惑させます。あまりに謝る彼に彼女は口をつぐむポーズをし、一緒に降りないでね、と冗談半分本気半分の別れを告げました。投げキスの明るい別れですが、電車が動くとうつむいた青年が窓に写ります。ブロンドの青年の伏せた目の悲愴は、明るい街の情景と溶け合って、彼の内面と無関係に美しく、彼の青い目は柔らかな木と木漏れ日と調和しています。美しい景色は優しい車輪のリズムと共に動き、彼の心の中で何かが動いていることを伺わせます。

 青年はその後、昔シルヴィアと出会った「飛行士」という名のバーに行きます。彼はそこでブロンドの美しい女性を口説きます。彼女は青い挑戦的な目と魅力的な唇をもっていて、容貌も雰囲気も髪の色も先程の「シルヴィア」とは大きく異なります。しかし彼の表情からは、これがシルヴィアを見つけられなかったやけくそになって行った行動なのか、単に美しい女性を手に入れたいだけなのか推測できません。彼女は酔いで夢のような目をしており、曲が変わり彼女も踊りはじめます。彼に目もくれず。青年は虚しさをかき消すようにドラムの音を軽く指で踏みます。その女性は別の男性とダンスを始めます。優しいギターの曲「僕は変えれるかもしれない。でも彼女がいい。」その後彼の視線はまた別の女性に移り、黒々とした服に銀のチェーンのいかつい風貌にまっすぐに伸ばされた髪へ向かいます。青ざめたと言えるほど青い彼女の肌に憂鬱な黒い目がどこか一点に呆然と注がれています。

 シーンはバーから彼の宿へ移ります。その夜の彼のベッドには黒髪の女性が寝ています。暗くてよく見えないけれども、外の車が照らす光から女性は長いウェーブした髪を持っていて、うつ伏せで彼を眺めています。バーでであった女性とは異なるのでしょうか。私たちにはしらされません。

 翌朝再び彼はカフェに現れます。給仕の女性はDesirelessのVoyageを口ずさみながら洗ったグラスを拭いています。彼は黒人商人から買った音の鳴るライターでグラスを拭く彼女を笑わせます。ささやかな視線の交わりののち何事もなかったように元の時間へ戻っていきます。ふとした視線の先に彼は赤いドレスの女性を見ました。はっとした彼は再び「彼女」を追いかけます。彼女はシルヴィアなのでしょうか? カフェから彼が離れていく後ろ姿、彼が路面電車のレールを渡ると電車が通りすぎ、彼はもう過ぎ去ってしまいました。美しい街の静寂は彼の不在による空白感と溶け込んで、これから永遠に会わない人に手を振る時の清涼な気持ちを私たちに残します。

 駅まで追跡した彼は、追跡した女性がトラムに乗り振り返った顔を見て、その場を去ります。シルヴィアではなかったのでしょう。駅には様々な人がいます。彼はまた見つめるという行為を始めます。カフェであった女性たち、美しくなびく髪、顔にあざのある女性、昨日バーで振られた美女も誰かに手を振っています。電車にシルヴィアの物憂げな美しい顔がうつり、彼女が路面電車の中にいます。彼には気付かず、電車の中で誰かと握手します。最後、見慣れた街中を人々や自転車や電車が通り過ぎ、映画世界は幕を閉じます。

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シルヴィアのいる街で 追跡劇


 

2.映像の印象派

【純粋に美しい映画】 

 この映画では光に溢れた美しい絵画がスクリーンの中で動き出します。空間と時間による光の質の変化の描写であり、これは印象派の特徴でもあります。街の音、人々の歩く音や自転車のベル、ささやかな話し声や電車の音が、主人公の感情に呼応するように、内面と景色が美しく調和していきます。さらに映画は絵画と違って時間の継続、音響も加わります。この時間・音は、画面や音として繰り返し現れるモチーフによって洗練された交響曲のような構成をなします。”LAURE JE T’AIME”のらくがき、花を持った男性の歩み、ホームレスの瓶の転がる音、黒人商人の売るライターの音、様々なものが目にも耳にも音楽のメロディのように繰り返し登場します。この身近な音たちが織りなすリズムは、音楽と同じく物語性の希薄なこの映画に統一とハーモニーを生み出しています。

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シルヴィアのいる街で LAURE JE T'AIME


【映像の印象派

 この映画世界の中では、モネやルノワールのような印象派のような画面が、光に溢れた美しい絵画が、スクリーンの中で動き出します。

 印象派は光の変化や空気感など一瞬の印象を再現した作品を制作しました。それゆえ明るい画面の鮮やかな色彩の作品が多く制作されます。一方「シルヴィアのいる街で」は映画であるがゆえにその光の変化や空気感が持続し、移り変わるものとして映しだされています。印象派たちが止めた一瞬をさらに時間的広がりを見せます。例えば路面電車の駅のシーン。人物たちが動くことによって、様々な角度から眺められた駅の風景とそこに流れる時間が表されています。またピントの調整の移り変わりによって大胆に省略される背景のタッチも印象派を連想させます。カフェでヴァイオリンを弾く二人の女性は前の女性から後ろの女性へ視線がうつり、前の女性はピントの合わない淡い存在になります。このように光や色彩の使い方が印象派に類似しています。

 印象派の特徴である風景や普通の人や街並みを映画の題材とされている点も類似しています(これ自体はリュミエールに始まる映画史として、初期映画の特徴でもあります。当時は画面が動くという自体が大変画期的だったので、いつもの風景が画面の上で動くことを人々は楽しみました。)それから1950年代まで演劇や小説が映画化されることが流行りました。シェークスピアモリエールなどほとんどの有名な演劇作品が映画になったのではないでしょうか。また小説の映像化は皆さんもご存知のように今でも無数の例が挙げられます。この風潮により、映画は物語を提示するものだという大きな流れが出来上がり、基本的には現代もその傾向は続いています。しかし、この2011年公開の映画は物語性が薄く、ドガが追求したような都会生活とその中の人間が美しく抽象された形で描かれます。

 多くの人が指摘するように、les aviateursのシークエンスではマネのフォリー・ベルジェールのバー[A Bar at the Folies-Bergère]のオマージュがなされています。このあまりに有名な名作と同様、バーの女性店員は鏡を背景として黒い衣装に身を包み、胸にピンクのバラをさします。勿論この女性は19世紀後半酒と愛の売り子であったバーの娼婦とは異なる存在ですが、その柔らかな動きはどこか愛嬌と寂しさの織り混ざった姿は色っぽくもあり子供らしさもあり、見るものを微笑ませます。

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シルヴィアのいる街で マネ フォリー・ベルジェールのバーのオマージュ

[出典]

tableau vivant | marauding ennui

 

 この映画では、印象派の特徴である空間と時間による光の質の変化の描写がなされています。さらに景色も美しいですが、何より人間の美しさが強調されています。楽しげに会話する女性の陽気、背を向けて髪を結ぶ優雅さ、首元のほくろから露わになる肉感、風に揺れる髪の自然さ。「彼女」の白い肌、大きなバラのような眼差し、「彼」のカールしたきらめく木の葉のような髪、透き通った淡いブルーの瞳。これらの艶やかさはこの映画が描き出すことに成功した人間の美しさの抽出だと考えられます。

 心情描写も映像と一致するように描かれます。印象派以降の人物画も、対象をそのまま表したり身に着ける服や絢爛な装飾によって権威を示すものから、その人や画家の内面を表すような絵画に移り変わっていたようでもあります。マネは女性を多く描きましたが、作家自身の貪欲な愛情を色と形に表すことに成功しました。その絵からはパリの空気を感じ、スカートの衣摺れから香水が漂います。この映画もシルヴィアを見つけてはっとした彼の後ろを路面電車が走り、がたんごとんという音が彼の心のざわめきと一致します。彼女に詰られるシーンでも、シルヴィアじゃないわとわかった時も、謝りすぎてもうやめてと言われる時も、電車が止まって静寂に包まれます。この静けさは彼の心の動揺を強調しています。このように心情も映画世界と調和しているのです。

 この映画は、絵画として光の動きを捉え、内面を画面に映し出し、都会の生活を描いた印象派を映像として発展させました。美しい画面やその感覚の爽やかさから「映像の印象派」と呼べるのではないでしょうか。

 

【凝視の視点】

 凝視の視点とは、一見画面上で何が起こっているか分からず、観客に凝視させ、視線の誘導を誘う方法です。タルコフスキーノスタルジアに関してこの方法論を多く用いました。ゲリンはタルコフスキーのように、暗い画面を用いて凝視の視点を用いることはしませんでした。しかし、長時間観客に、変化のない(ように見える)画面を提示し、動き出すものに視線を誘導させるという方法は同じです。この手法は特に初めのシークエンス、主人公がホテルにおいて物思いに耽る場面において、有効に用いられています。主人公はベッドに座り静止している。暗い部屋の中で睫毛がミントブルーの瞳に影を落とします。暗い部屋の中私たちは質素な部屋で考え込む美しい青年と同じ時間を過ごします。青年は一体何を考えているのでしょう? 彼の世界に耽溺しているのか素朴に興味を持ち始めます。カットを変えても青年は思考し続けます。観客はそれを見つめます。突然思い立ったようにノートを取り出し、日記を書きつけます。鉛筆の音が響きます。様々な角度から思考を描写する彼の姿が映し出されます。彼のは何を考えているのでしょう?彼は何を書いているのでしょ?この場面は、語らないということを語ることによって私たちにこれから何かが起こると期待させます。その点でこの凝視の視点は非常に効果を持っています。この場面に誘導された私たちの感覚は、希望を持って明るい街に出ていく主人公と一緒に、わくわくしながら映画の世界に出かけて行きます。

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シルヴィアのいる街で 凝視


 

【鏡】

鏡は、物語を優雅につなげる役割として現れます。この作品では鏡の表現が視線の、本物の鏡ではなく窓ガラスに映る景色、電車に写る人も含みます。 愉快に遊戯をする親子、その前を電車が通る。リズムの良い軽快な音を立てる車両越しに、親子の遊びがのぞける。電車はゆっくりと通り過ぎていく。硬い金属の車両やその光る窓にシルヴィアの顔が映る。そう。彼女はホームに立ち、電車が通り過ぎ、その対岸に母娘のささやかな遊びがある。そしてこの一連の光に満ちた美しさをすべて眺める主人公が映し出される。このような視線の移り変わりが鏡を通して行われます。これはカフェのシーンでも用いられます。

 

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シルヴィアのいる街で 戯れる親子と電車に移る「彼女」

 

3.ソナタ形式の自然音

 この映画の特殊性の一つは、音の使い方です。歩く音、電車の音などの普通の生活音が、モチーフ化されてクラシックの一つの楽曲のように構成されています。普段は私たちは何気なく音を聞いています。音というのは視覚よりも消極的な性質を持っています。視覚ならば顔を向けたり視線を動かしたり対象に集中したりすることが可能です。しかしものを聞く時、多くは自然に耳に入ってくるのではないでしょうか。もちろん音楽を聞く時や耳を澄ますときなど積極的に聞くことはできますが。映画は映像と聴覚の芸術です。一般的に聴覚は主にストーリーに関係のある背景の自然音および感情を発露させるために音楽を用いられます。この映画における音の使い方は、音楽と対立させた自然音に関して、従来の用法とともに、さらに新しい使い方がなされます。ここでいう自然音とは、電車の通る音、街の鐘の音など音楽以外の映画のレコードをさす事にします。そしてシルヴィアのいる街では、驚くべき事に自然音がクラシックの古典的な作曲法に似通った使われ方で映画全体を通して”作曲”されているのです。
 

 ここで音楽の基本的な形式であるソナタ形式を大まかに参照します。

 

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提示部というのは、二つの主題(テーマ)が提示される部分、展開部とはそのテーマが展開される、再現部は二つの主題が再現されます。 提示部では第一主題が主調、第二主題が属調平行調で表されます。この変調によって曲に対立が生まれます。展開部では提示部の主題がさまざまな方式でに変形、変奏されます。転調が激しい場合も多く、最も緊張感が高まる部分です。再現部では第一主題も第二主題も同じ主調の上で描かれます。以上見てきたようにソナタ形式は大まかに三部別れます。大規模の音楽になると、さらに序奏と終奏が構成されます。

 

 さて、シルヴィアのいる街では、あらすじの章に記したように第一夜、第二夜、第三夜の三部構成です。これがそのままソナタ形式の三部に対応します。またここでは第一主題を街並みの音、第二主題をカフェ・駅などで人を見つめる時の自然音としてみましょう。これを土台として様々な自然音を主題・モチーフとして繰り返されます。提示部においてこの二つが観客に示されます。一般に変調されるのは提示部第二主題ですが、この映画においては追跡で彼と彼女がすれ違う様子であらわされています。展開部では追跡において彼と彼女の距離、それによる足音、また彼女と会話する場面での電車の緩急の音声、バー Les Aviateurでの様子においてリズムのように繰り返されつつ、変形・変奏されています。再現部ではさらに二つが対立する事なく調和します。鼻歌を歌うカフェ店員は彼に微笑みを投げます。以下表は詳細の自然音分析です。提示部で現れた音たちが展開部で発展し、再現部で見事に回収されている様子が見れます。このように、シルヴィアのいる街での自然音を主題およびモチーフとして様々な場面に散りばめらせ、映画全体を”作曲”するような構成をなしています。 

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 もちろん音楽も従来の方法同様主人公や観客の内面を引き立てるために効果的に用いられています。音楽は全8曲使われます。通し番号をつけてヴァイオリン曲A,B,C、ポップソングA,B,C,D、クラシック一曲。ヴァイオリン曲Aはカフェで流れるゆったりとした三拍子の曲で、Bもカフェでど流れますが導入的です、Cは「彼女」を追跡しているときに流れるテンポの速い曲です。特にAは「見つめること」の魅力、人間の美しさにうっとりとして鑑賞する時の甘い気持ちを反映します。ポップソングA~Cはバーで、Dは翌日のカフェで流れます。Aはゆったりとした音楽(これも三拍子)、BはBolondieのHeart of the Glass、Cは男性の優しい声がと控えめなギターとドラムに合わせて歌われ、DはDesirelessのVoyage。クラシック曲はバロックの宗教音楽で確認していませんがバッハではないでしょうか。終焉のシーンで用いられ、あたかもcodeのように荘厳な締め括りを見せてくれます。

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シルヴィアのいる街で 見つめる「彼、夢追い人」


 

 

4.見ることの魅力と恋

 この映画が何を表現したかというと、ゲリン自身が語っているように「見ること」についての映画です。柔らかい太陽を含んで揺れる木漏れ日、優しい光にあふれた中世の街並み、物悲しい音楽たち、美しい視線を投げる「彼女たち」。その美しさに引き起こされる胸の高鳴りによって、鑑賞者の感覚は恋をした時のような雲の上の柔らかい気持ちへ昇っていきます。


 主人公は『彼、夢追い人』。彼には名前が与えられてません。デッサンしていることから画学生であることは推測されます。見ることというのは彼にとって人生の中心で、意味に満ちた行為なのでしょう。ただ「見ること」という人間に共通の行為は、「彼」の匿名性によって彼を通して映画世界をみる観客の目も存在も示唆されています。彼はカフェにおいて様々な女性を観察し、デッサンをします。ある時後ろ姿のブロンドの女性に目が移ります。彼女は金色に光る髪の毛と白い背中しか見えません。彼女背の向こうには爽やかな葉の淡い緑がピントのあわない優しい風景が横たわっています。背中のほくろが彼女の存在をリアルな生き生きとしたものにさせます。その首元にゆっくりと手を添えて、優雅に首を撫ぜる姿は肉感的で、女性そのものの美しさを愛でているような感覚に陥ります。この時ヴァイオリンの演奏が始まります。もしかして、彼女がシルヴィアではないか?彼の心が浮き立つのに音楽は呼応し、世界全体が調和します。彼は席を移って彼女の顔を確認します。しかし、彼女は「彼女」ではありませんでした。彼の探している「彼女」。その奥のガラスの向こうの女性に視線が向かいます。彼女の艶やかな物想いの面持ちがガラスの建物の内側の暗闇に白く美しく映えます。はっとした彼の後ろを路面電車が走り、がたんごとんという音が彼の心のざわめきと調和し響き渡ります。

 

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シルヴィアのいる街で ガラスの奥の「彼女」

 

 「見ること」は恋をすることの一つの顕れです。恋した相手ならば、伏し目がちな天鵞絨の長い睫毛に、隠れる夜の海の深さの瞳に、艷やかに伸び縮みする唇に、太陽を刻んだ愛らしい肌に、長い間見惚れていて退屈さを感じずに、心地よいものです。もし友人との関係ならば相手の顔を観察することはあっても、無言で凝視し続けることなど滅多にないでしょう。無言を貫き相手を見続けることは失礼ですらあります。しかし恋人ならば、風に揺れる髪、こちらを向く眼差し、それらを見守り優しい愛を感じていいのです。遠くを見つめる物憂げな目、安堵に満ちたや温和な寝顔、鏡に映ったひとの視線を気にしない風貌、隣を歩く夜のひんやりとした横顔、目の開かない気怠い朝まで、素朴な一瞬がいつも煌めいているのです。その時を見つめて、輝く時間を永遠に感じながら、様々な絵画に閉じ込められた永遠が本物になって目の前に現れてきます。恋人の瞬きごとに、絵画の放つ眩しさが、その優しい目元からこぼれだします。この映画では、常に「見つめて」います。彼の視線の先を私たちは追い続け、美しい女性に魅入ったり、異国情緒のある街並みに甘く心を溶かします。彼がシルヴィアを探すとき、私たちもともに彼女を見つけたかもしれないとはっとしたり、彼女の美しさに魅せられて鼓動が高鳴ります。この時私たちは「彼」も観続けています。彼女を探し続ける彼と、彼の視線の先。見つめるということが、美しい対象を愛でることが、恋の感覚ととても似ているのです。

 この映画は私たちを恋に落ちたときような感覚へ昇らせるとともに、映画を観た後の私たちは彼や彼女たちの美しさに虜になってしまっているのです。

 

【最後に】

シルヴィアのいる街でという作品はその絵画性も音楽構成も様々な魅力に溢れた作品です。本投稿では3点の側面からこの映画を捉えました。

・「映像の印象派」としてのこの作品

・音楽構成理論に基づいた自然音

・見ることの魅力と避けがたく類似した恋の感覚

日常の美しさを極度に洗練された形に仕上げたこの作品は見るものをうっとりとさせます。この映画の面白さが一人でも多くの人に伝わり、愛されることを期待しています。

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シルヴィアのいる街で elles

 

 


 

音楽と人生 1 ーボロディン『イーゴリ公』「ダッタン人の踊り」についてー

 

 

風の翼に乗って 

故郷へ飛んでいけ 祖国の歌よ 

そこで私たちはのびのびと歌い 

あなたと自由に過ごしてい 

 

そこでは灼熱の空の下 

大気は幸福に満ちてい 

そこでは海が優しく語らい 

山は雲に囲まれ夢を見る 

 

そこでは太陽が煌煌と輝き 

故郷の山は光を注がれる 

谷間にはバラたちが咲き誇り 

緑の森で小鳥たちが歌う 

そして甘いブドウ畑が熟していく 

 

そこであなたに自由に歌った 

故郷へ飛んでいけ 祖国の歌よ 

 

 

アレクサンドル=ボロディンをご存知でしょうか 

ロシア人の作曲家で、本業は化学者、日曜作曲家として活動しました。音楽史で言えば、ロシアにクラシックを取り入れたグリンカの次の世代のロシア国民楽派「五人組」の一人です。ナポレオン戦争後、各国で民族主義が巻き起こり、西洋とは異なる歴史を歩んだロシアのロシア人らしさというものが編まれていった時代です。文学で言うとプーシキングリンカドストエフスキーボロディンが同時代人です。 

 

 

冒頭の詩は、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」の一曲、「ダッタン人の踊り」の歌詞です。 

この素朴で悲しく勢いのある音楽は、私の人生を大きく変えこそしませんでしたが、生まれながらに持っていた魂の根底に流れる価値観とうまく溶けあって、人生の通奏低音のように奏でられてきました

 

Polovtsian Dances with Chorus (from 'Prince Igor') 

https://www.youtube.com/watch?v=aGNObWgU2Qw 

 

 

 「イーゴリ公」はロシア民族と遊牧民族・韃靼人の関係を描いた歌劇です。(原語ではポーロヴェツ人(草原の民)となっていますが、ここでは日本で流用する韃靼人という訳を採用します。実際韃靼人=タタール人はロシア語においても遊牧民全体を指す語として用いられていました。)

 それはナポレオンの「民族主義」の波及でロシアのロシア性の捜索が始められた時代でした。ロシア人とはどういった民族なのか、ロシアはなぜ経済的に遅れを取っているのか、ロシアとは何か、そういったことが問われ、考察され、芸術などの形式で実現化したものです。

 プーシキンはこう考えました。ロシアが歴史的に無価値だという意見には異を唱える。ロシアはかつて遊牧民の侵入を受けた。西側のキリスト教文明へのタタール人たちの侵入を我々が食い止めた。しかしその代償として長くタタールのくびきを受け続け、ロシアは西側とは異なる独自の形でキリスト教文明を確立していった。

 プーシキンと同時代人にグリンカと言うロシア人作曲家がいます。グリンカはロシアの「最初の」作曲家とも言われています。と言うのは、もちろんそれまでもロシア正教会においてはミサ曲など作曲活動は行われていました。しかし近代的な作曲家:作曲家としてそれにロシア的なクラシック音楽を作ったのは実は彼が初めてで、それまでロシアに近代作曲家と言えるひとは出ませんでした。これも東方キリスト教文化のひとつの側面です。

 そのグリンカのひと世代後にボロディンをはじめとするロシア五人組がいて、反体制派を唄いクラシックの流れを汲みながらロシア的な音楽を作って行きました。メンバーはバラキレフ、キュイ、ムソルグスキーコルサコフボロディンロシア五人組の中でも、ボロディンはロシアだけでなくタタール人やペルシャ人などに興味を示し、そういった様々な民族と関わることによって織りなされてきたロシア人というものを表していると私は思います。

 

歌劇イーゴリ公について

話が大きくなりましたが、この曲が含まれた歌劇の話に戻ります。

歌劇とはイタリアのオペラから派生したジャンルの一つで、オペラに合唱・クラシック・踊りを混ぜ込んだ華麗な舞台のことを指します。「イーゴリ公」という壮大な歌劇は、中世ロシアの伝説的な叙事詩イーゴリ公遠征物語」をもとにボロディンによって構想・作曲されました。未完のままボロディンが亡くなったため、コルサコフグラズノフが編曲・再構成して世に送り出されました。

舞台はロシアがルーシだった時代。イーゴリをはじめとする公たちがルーシを韃靼人の侵入から守るために遠征に駆けて行きました。しかし彼らは屈強な韃靼人たちに壊滅させられました。イーゴリや息子ウラジミールは虜囚の身となってしまいます。対する韃靼人たちは、コンチャーク汗(ハン・王)を長としてまとまっていました。コンチャーク汗はイーゴリと手を組むために捕虜たちを奴隷にせずにもてなします。イーゴリにルーシを裏切らせ、共に攻めようと提案しました。そこで歌われるのが有名な「韃靼人の踊り」です。

ダッタン人の踊り」場面の合唱は大まかに、四つにわかれています。 

1女奴隷たちの踊り、2荒々しい男たちの踊り、3ハンを讃える歌を歌え、4全員の踊り 

文頭の詩はこの歌の1の部分です。草原の民の王がカスピ海沿岸で捕虜にした美しい奴隷女たち、彼女らが自由に過ごした故郷を慕って歌うかなしい旋律です 

 

ボロディン オペラ「イーゴリ公」より「韃靼人の踊り」2013/02/10

指揮 サイモン ラトル  ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI

 

以下は曲のイメージです。上のリンクを聴きながらあなたのイメージを膨らませる助けくらいの気持ちで読んでください。

「韃靼人の踊り」

美しい奴隷たちの踊り

ペルシャ風の優美な旋律、草原の民の音楽、

弱く美しい高音が心に風を吹き通り過ぎていく

この音が私たちを故郷の憧憬へ連れていく

かつてあった自由、自分が過ごしていたはずの場所、本当の自分でいられた場所

そこであなたは自由に歌った。

そこで私たちは気ままに踊った。

4拍子なのにあたかもワルツのように心が軽やかに跳ねる

故郷から引き裂かれた離れた悲しみが妖艶にすら映る

遠く広く永遠の故郷 そこは本当はどこにあるのだろう

故郷まで飛んでいけ、祖国の歌よ。

 2

転じて馬の軽快な足音 荒々しい男たちの踊り

大草原に生きる草原の民の男性の歯切れ良い足踏み

軽やかに草原から空の上まで駆け抜けていく

子気味良いリズムに力強い男性的な低音

風を感じて青空のもと地平線まで駆けていける

 3

そして崇められる汗(ハン、王)

兵士も女たちも混声で全ての人種がハンの威光を華やかに褒め称える

肉体的な強さ、王の気運を持つ者だけに宿る精力、隣国を次々にものにしていく才覚、広大な世界に広がる権力、

古今東西全ての力が今目の前の、この王に集められているかと錯覚するほど

 4

女たちの伸びやかな自由と対比された、男たちの頑強な秩序と権威の活力

哀愁をはらんだ豊かな個人の思い出の波、牢固たる屈強な集団のなす規律の迫力

その対比も韃靼の一大国家をなす要素であり

悲しみも活気も全て王の絶大な権力に吸い込まれ華やかに漲る

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イーゴリ公は接待を受けても、コンチャーク汗に言い寄られても決してルーシを裏切りませんでした。コンチャーク汗はその強い意志に感動して、イーゴリら捕囚たちを全員解放します。イーゴリの息子ウラジミールはコンチャーク汗の娘と恋に落ち、韃靼の中に留まります。イーゴリの帰りを待っていた妻ヤロスラーヴナたちは彼らの帰還を歓喜とともに迎えます。

 

私がこの歌劇で好きなところは、悪役が一人も出てこないところです。ロシア人のための作品であるにもかかわらず、むしろルーシたちも王も人々も、皆が善良で強くも弱い等身大の人間として描かれています。故郷ルーシに忠実で勇敢な、息子を遠くに離す悲しいイーゴリ。屈強ながらも捕虜を殺さないコンチャーク。愛の力の素朴で優しいウラジミール。夫と息子を待つ純朴なヤロスラーヴナ。美しく弱い女奴隷たちと屈強な韃靼の戦士たち。韃靼の公主がロシア公子に嫁ぐ点で当時のロシアの辺境支配の思想に迎合しているとも批判されますが、それ以上にボロディンはロシアと関わりをもつ他民族に尊重と敬意を以っていたことが窺えます。

 

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 この素朴で悲しく勢いのある音楽は、私の人生を大きく変えこそしませんでしたが、生まれながらに持っていた魂の根底に流れる価値観とうまく溶けあって、人生の通奏低音のように奏でられてきました。

 

 

後半に続く

 

 

 

私の知らないウイグル

 

砂漠と空。地平線。太陽は静かな暴君として砂漠の隅々まで己の支配を行き届かせ、大地はその広大な懐で太陽を照り返す。黄金のまぶしい大地は空をより青く見せる。この紺碧と金色は絵の具で描いたように力強く融和する。ここは草木一本たりとも育つことを許さない厳格な土地。そこに引かれた真っすぐのコンクリートを私の乗る車は走り抜けていく。人も生物もいない静寂で、車と風だけが耳にささやきかける。太陽の厳しさに目くらくらするけれど、そのめまいさえこの美しい二元的な世界ではうっとりとした恍惚に感じられる。車の窓を開ける。灼熱の生き生きとした風が顔にぶつかり、心地よく目を閉じる。広大な空と大地には人を寄せ付けない強大な力がある。その強さに、うっとりとする。

突然、葡萄畑が広がった。みずみずしい葡萄たちが車の窓から絶え間なく現れては後ろに去っていく。私は運転手に言って、車を降りてみた。大地から続く青々しい蔓が頼りない木の支えにしっかりと絡まり、支柱と支柱の間に背格好くらいの高さに葡萄たちが実る。見上げると、それははち切れそうなくらいみずみずしい果実をたっぷりとつけてぶら下がり、若い葉と蔓の間から青い空が覗く。どこまでも向こうまで夭々たる豊かな果実のトンネルが続く。紫色の葡萄と紅色と萌黄色。葉は表は濃く裏は薄緑に蓁々と繁り、こんなにも色とりどりで優しく、うるわしい大地におどろく。車に戻って道を進めた。どんなにこの車がはやく走ったとてこの豊かな風景は尽きない。葡萄と砂漠。この土地の、美しい厳格さと、それに囲まれた尽きない富の不思議な同居に、目を奪われ、心臓をぎゅっとつかまれる。

 

「ラムレーズンが買いたいんだけど。」

私は車の後部座席に揺られながら英語で尋ねた。ここはユーラシア大陸の内部。葡萄の名産地、新疆ウイグル自治区の土魯蕃だ。今朝この駅につき、テロ対策のためかやたら厳しく持ち物を調べられた後外に出た。朝日が古いコンクリートの白い壁を照らしていた。駅の電工掲示板が赤やオレンジや緑にひかり、見慣れない雰囲気の顔たちの間を歩いていた。ここは行きたい街からは少し離れていて、どうやっていこうかと考えていたところ、英語のわかる現地の運転手が話しかけてきた。彼はタヒルといい、多くはしゃべらないが、優しく笑う人だった。商売人特有の作り笑顔はなく、少し内気で、時々笑う、柔和な雰囲気を漂わせた青年で、女性一人の旅でも信用できそうだと思った。運賃を交渉した。お腹がすいたと伝えたら、朝ごはんに連れて行ってくれた。もちもちした麺料理のラグメンを一緒に食べ、彼と私は二人街に向かった。そして砂漠を抜け、いま、葡萄畑の間を走っている。柔和なウイグル人の青年は、この民族特有の大きな目をカーミラーに映し、後部座席の私に聞き返した。

「ラムレーズンってなに?」

運転手のタヒルは三十才だ。イスラム教を受容したウイグル族の一人で、英語を学び、外国人向けにタクシー運転とガイドをしている。彼は奥さんとは十八才のときに出会い、五歳と三歳の娘と息子がいるといって、写真を出してスマホを渡してくれた。三輪車にのった女の子がタヒルと同じ柔和で大きな目で少し恥ずかげにこちらを向き、ピンク色のスカートを風に揺らしている。その奥でタヒルが男の子を抱き、かいがいしげに子供の顔を覗き込む。愛情を受ける小さな命は心もとないつぶらな瞳でカメラをみつめる。可愛いでしょと笑顔でカーミラーを見た。あんまり幸せがいっぱいすぎて、目尻からこぼれおちそうだ。だんだんその笑みから力が抜け、遠くを見つめる。でもね、結婚にはちょっと苦労したんだ。向こうの両親がはじめ結婚を認めなかったし、未婚の男女が会うのはイスラム教の説く貞淑さに悖るから。そう言う彼の目はここにはおらず、かつての喜びや苦しみのすべてが優しい思い出となった、穏やかな顔をしていた。伝統的なウイグル帽をかぶらず、英語を話す現代的なウイグル人の彼。土地のよき文化の中にそまりつつ、親の世代の価値観に少しの疑問と反抗心を抱く、とても健全な青年像がそこにあった。彼は友人に会うために礼拝には足を運ぶ。毎週友人たちと会い、固い握手を交わし、たった一週間の日常の変わり具合を話し、お互いのことを知る。彼らは、礼拝という口実をもとに、ぶどうのように、ゆるやかに、豊かに、世話の施された関係を持っていた。しかし私の些細な質問で状況は変わった。

「ラムレーズンなんてわからないよ。なんだよそれ。」

ヒルはアクセルを踏んだ。車がずんと揺れ、加速した。豊かな葡萄畑はぷつりと途切れた。再び厳しく広い砂漠のなか、コンクリートの細い一本の上を我々の車がぽつりと進み始める。かなりの速さで駆け抜けているはずなのに、青と金のあまりに強く、変化のない景色は私の進みがどれだけひ弱なものかというのを思い知らせてくる。一抹の不信が心を掠めた。ここはテロがあると聞く地域だ。あの柔和なタヒルから笑顔がなかった。さっきまでの暖かい雰囲気が泡のように消えていた。私は位置情報アプリを開き確認すると、行くべき街とは違う方向に進んでいた。おかしい。タヒルスマホをポケットから取り出した。そのせいで車はひどく揺れ、ドアに肩がぶつかり身体が悲鳴をあげた。すると彼は片手にハンドル、片手にスマホをもち電話を始めた。びっくりするほど低い声をしていた。知らない言語の、聞いたこともない音と抑揚が車内に響いた。音の出し方すら分からない乾いた発音が繰り返し耳についた。うるさい声ではなかったが、彼の大きな背中に、未知の言葉に、心臓まで響く低い声に、からだが萎縮していた。私は、たった一人だった。このさっき知り合ったばかりのウイグル人は私をどこへ連れていくのだろう。不吉にのみこまれてしまいそうだ。こっちは行きたい方角じゃないと主張してもタヒルは反応しない。ミラーをちらりともしない。もしかして騙されたのかな。不安そうに前を見つめ、無意識に自分の手を固く握っていた。どうして。どうしてさっきまで柔和だったタヒルが突然怒ったように押し黙るのか。街と垂直の別方向に進んでいくのか。私は、ここのことをなにも知らない、異邦人だ。今朝見かけた優しそうなタヒルだけを頼りにここまで来た、土地も言葉も、あまりに無知な余所者だということを思い知った。人をよせつけない砂漠のど真ん中、どうしようもなかった。スマホの画面上の地図は、広大で、何も記すものがない芒漠を、小さな車が進んで行く様子をむなしくあらわしていた。

怖じついてそわそわしながら、車は砂漠を抜け、小さな葡萄畑を通りすぎ村へ入った。車のスピードは緩まり、土煉瓦やトタンの建物が現れ、タイヤの並ぶ店の前で車は急ブレーキがかかった。私は背もたれに頭をぶつけた。タヒルはまだ電話を続けており、運転席の窓をあけた。店から五十代くらいの顎の突き出た男性が出てきた。生まれつき眉をひそめているような険しい表情をしていて、私はこれから何が起こるのか、あらゆる恐怖を頭のなかでめぐらせた。体は動かず、硬直したままこちらに向かう男性を私の目だけが追った。彼はこちらを一瞥し、真顔のままタヒルと握手した。乾いた独特のリズムの言葉が交わされていた。するとタヒルはこちらに振り向いた。

「日本語の分かる友達のところに来たから、君のいうラムレーズンの質問をしていいよ。」

ヒルは、暫くぶりに優しい目を私に注ぎ、にこりと微笑んだ。不意をつかれた。彼は、そうか。私のために、わからないこと解決しようと真剣になりすぎて、厳しくなっていたのだ。体を締め付けていた不安がふっと解かれ、安堵の嘆息がからだじゅうに広がった。彼も知らない言葉に不安で、私のために、砂漠をひとつ越えてここまできてくれたのだ。今、安心した彼の笑顔の、優しく愛らしい目尻からは、それはもう、花が溢れてくるように感じた。後部座席の窓を開けてくれ、タヒルの友人であるおじさんは窓を覗き込み、ひそめた眉のまま笑った。

「あなたは何がほしいですか?」

私は安息の心地よい波に浸った。この田舎のタイヤ店のおじさんは、昔日本でシルクロードブームが起こったときに日本語を学びバスガイドとして働いていたが、もう観光客のほとんどが中国人で日本人はめっぽう減ったからガイドの職を離れ、タイヤを売る店を開いたと語った。もう仕事にはしていないが、それでも時々日本語を喋れる自分を頼って友人や旅人が訪れてくれてくれることは嬉しいと言った。私はなんだか、優しい気持に満たされた。この人たちは、助け合って生きているんだな。これが、ウイグルなんだ。砂漠に囲われた厳しさのなか、豊かな葡萄畑に生きる人々。困ったらすぐ友を頼り、惜しみ無く助ける。そこには。彼らは普段はゆったりと仕事をし、既存の社会や宗教に多少の反抗を感じながらも毎週モスクに行き、礼拝の際に友と会い、握手を交わす。日常のことを話し、お互いのことを知る。友情を確かめあうといえば仰々しいが、彼らのゆるやかな友だちとの繋がりは、こういった風習により途切れることなく続くのだった。これが、ムスリムで、ウイグル人なのだ。砂漠と葡萄が不思議に融和すつ土地と、イスラムの文化から出で来た助け合いの精神。そこには……。近代社会を受け入れて伸長させてきた私たちが失った精神があった。私たち日本人にはまだ馴染みのないムスリムの、人と人とのあたたかい繋がりが、そこにはあった。スカーフを被った女性を四人も乗せたバイクが、楽しそうに話しながら通りすぎていった。

「ラムレーズンはありますか?」

私はやっと、日本語で聞いてみた。話してみると結局このおじさんもラムレーズンについては知らず、ここにはおそらくそんなものはないのだろうということになった。ラムなどなくとも、確かに豊穣の葡萄畑からはたくさんの種類のワインができるし、それで十分だった。愛らしい人々のつながりと豊かな土地。ここにはもうこれ以上望むものなどなかった。

学ぶことについて

 

「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」----ドイツの諺

 

「学ぶ」と言えば勉強や教科書を読んだり問題を解いたり論文を読むことが想像されるように、受験の対策からひいては自分の専門・職業になるような学びがイメージされるでしょう。とても大事なことです。それを真摯に遂行し続けることにより、新たな発見や人類の素晴らしい進歩があるのですから。それがなければ私たちは飛行機で空を飛んだり、映画を見たり、電気をつけることすらなく、それがなければ、サン=テグジュペリの人間の土地のような素晴らしい小説が生まれず、それがなければ宮崎駿ジブリでかくも飛翔の美しさを扱ったりしなかったでしょう。 学問や技術というのは、しばしば人間性を無くすものだと非難されます。しかし電車を使い、水道から水を汲み、薬を飲み、インターネットを使いながら学はない人間は幸せだというような姿勢はあんまりみっともない。技術は人の行動は変えても、人間の根本は変えません。人は技術の上に新たな夢を描くのです。

 

ただ私は職業でない学びも大事だと思っていて、それと同じ真剣さを以て世界や人間を理解することに関しても対峙するとよいと思っています。なぜか。なぜでしょうね、私は「現代に言語の分かる人間として生まれてしまったからには、文化も歴史も社会も、あらゆる人間のことを理解しないといけない」という義務感をもっているから、これ以上答えはないです。これを知った上でより良い世界を夢見ることが私の生きる目的なのでしょう。たぶんね。私と違って研究を通して文化、歴史、社会、人間の理解をやっているひともいるでしょう。それは大変すばらしいことです。そうでない場合、ひとはそれを趣味と呼ぶかもしれません。私は「なんで職業にしないのにそんな一生懸命勉強しているの」、などと心無い言葉を幾度投げられたかわかりませんが、とても大事なことだと思っています。無知は人の品位を下げますし、どちらかというとこちら側が自分の人生の本質だと考えています。

 

学ぶのには職業にするものと、そうでないものがあると言いましたが、同程度の真摯さを要求する限り、どちらも方法としては変わりません。私は「学び」を目的をもつこと、本を読み(ここには芸術作品を理解することも含みます)、偏のない眼で観察し、自分の頭で考え、それを伝えるという一連の流れをもって捉えます。最後の”伝える”は学びの必要条件なのか疑問をもたれるかもしれませんし、趣味ならばそこまでの誠実さを要求せずに自分が満足できればいいかもしれません。しかし私はそこまでの真摯さをもってすべきだと考えます。なぜなら自己満足のためだけの勉強はしばしば知的生産過程をすべて阻害するからです。こちらが頭を空にしていれば向こうから勝手に知識が入り込んでくるという受動的な学びの仕方で知識が付いたとしても得るところは少ないです。絶えず書物や世界に対して目覚めていなければ、人生経験からえることがないように本から得る本物の知恵はつきません。たとえ興味本位からはじめたとしても、意義も道標もない勉強をして偶然の繋がりに期待することはあまり望ましくないでしょう。何かを学ぶには最後に何かを軸に書くなり話すなり、目的をもって関わらないと完成に近づかないです。終着点を見定め、そこに川を作っていくように……

実はこの態度は私の深い反省から来る自分への厳しさです。大学三回生の秋から五回の夏の二年間ほど、私は大学の授業をほぼ受けず、人生の諸問題から逃れるようにたくさんの本を読み、長く旅をし、きれいな景色や歴史の跡を幾多見ました。耐え難い現実から去るように、いつもどこかに行きたがっていました。麻薬をやるように、ひたすら勉強していました。将来なんてなかった。自由が何より大事だった。でもそれでたくさんの人を不幸にしてしまった。「きれいな景色など見飽きた。自分のためだけの美しさなどもううんざりだ」。それで長い時間をかけて私はその生き方をやめました。自分の満足で閉じた観光旅行も、逃げるための勉強も。本に書かれた思想を自分の身に照らして理解することが大切で、自分を忘れるために本を読むのは好ましくない。小説をたくさん読んでいると空想と現実の境界線があいまいになって、そういったイリュージョンはとても楽しいのだけれど明らかに健康でないですね。それで、やっと長旅も含めて何かを書かないと、という気分になってこうつらつらと書き始めた次第です。まだこの意味で私の旅はまだ完結していないんですね、もう二年以上もたったのに!自分の行動により厳しい条件を課さないとつまらなくなったのはもしかしたら不幸なのかもしれませんが、まあ仕方ない。自分を見つめなおしてより大きな全き人格になったということではないでしょうか。そうなのだと期待しています。タルコフスキーを論文読みにとどめず鑑賞会として発表したのもこの気づきの一環なのでしょう。

 

さて学ぶには目的や人に伝えることが不可欠という話をしましたが、その過程は「本と観察から自分で思想を作り出すこと」が構成します。

まずは本を読むことについて書きます。

本とは古から現代までの知識人の思考を伺うことができます。これは考える土台・生きる基盤を与えます。

読む本は選ばなければいけません。第一級の本のみを読むべきです。原著を読むべきです。可能なら原語で読むべきです。「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」こういった言葉があるように、今流行る考えよりも時を経ても擦り減らないことの方が難しいものです。原著者・創設者・発見者の書いたものを読むべきです。他人、天才の思考をたどり、天賦の才の使い方を学ぶこと。一流の本はたとえ表面上わかりやすくても必ず難解なものです。重要な本は二回三回と読むべきです。

第一級のものを自分で選ぶためには歴史を知る必要があります。その意味ではある分野の概説の書は大変に役に立ちます。自分がなにを書きたいか、そのためには誰の、何を読むべきかという指針が立つからです。これは学びの目的を設定することにもつながります。

本は読めば読むほど見えるものが広がります。植物の本を読めば鴨川の緑がより豊富に見え、量子力学を学べばミクロなものが扱えるようになるように。今までみえていたぼんやりとした景色がよりはっきり見えるという点で、読書は視力を良くすると言えます。今まで見えていなかった世界を見る方法を与えるという点で、読書は人の目を開き、視界を広げるとも言えます。座学は世界を広げ、より秩序よく分割されたものにします。身につけた量だけ人の目を開き、視力をよくします。

書経験を自分のものにすることが大事です。身に着けるというのは時間や自分の頭など様々な犠牲を要求します。人生に浸食してきます。名著の自分に与える影響を恐れないという態度が必要になります。たまに読んだ本の数を自慢する人がいますが、流し読みや要約を読むことは読書とは言いません。そういうスノッブはさっさと見切って己の机に向かうべきです。勉強が修養となるのは、私たちが天才の考えた思考やその方法を学び、体に染み込ませたときのみです。私たちは食べ物で体を養うように読書で精神を養っています。口に含んで口から吐き出すのではなく、しかと飲み込み、吸収・消化しないと本を読んだとは言い難いのではないでしょうか。

 

観察から学ぶこと。これも大事です。自分の屈託のない目で見、自分の五感をいっぱいに使い、ものを見ること。教養とは生きることの関する洗練された知恵です。生活の体験に基づいて得られ、その人に身についており、話し方、仕草、挙動などあらゆるものに顕れます。世界に対して目を開いていなければ一体どうして生きた知識が得られるでしょう。また、このために本は役に立ちます。なぜなら本は私たちの思考の基盤だからです。本は読めば読むほど視力がよくなり目が開きます。広く見通せるようになった上で、土台を一度剥ぎとり、もう一度自分の目で見るのです。これは全く簡単なことではないし、議論を呼ぶ言い方ですね。でもそうすべきです。レヴィ=ストロースはそういう目を以て『悲しき熱帯』を書き、西洋的視点が他のあらゆる未開の文化にまさるという西の傲慢を暴きました。人の頭で考えたことをなぞったり、それ何かを付け加えることは簡単です。ただブレイクスルーがブレイクスルーであるためにはたくさんの賛同者が要ることも事実です。自分はどうありたいか、問い直すべきですね。

 

自分の思想を作ります。本を読む、屈託のない目で観察する、そうして得た知識を体系化します。読書や観察から得られた素直な真理を次第に鍛錬し、豊富にし、思想と呼べるものになるまで育てます。他人の意見の横流しは、義足・義手・蝋製の鼻・他人の肉を身にまとってぎくしゃくと歩いているようなものです。生まれながらに備わった肢体のように自然に扱えるまで自分の思想を整えます。本の受け売りよりも、自分でじっくり考えた知識の方がダイヤモンドの価値を持ちます。逆にそこまで高みに上ることにより、名著は、経験は、もう一度新たな深い思想をあなたに語り掛けるでしょう。それこそが、日常が実は肥沃であり、第一級の本が大変難解な理由です。知識が自分のものとなり、そしてより大きな知恵となる瞬間がここにあるとおもうのです。

 

築いた思想を表現します。書きます、人に伝えます。

何について、どう考えたかが大事です。つまり素材と表現形式です。素材が珍しいことならば書きやすい。大した文章家でなくともそれだけで面白く書けるから。この点でユーラシア大陸横断なんか書きやすいでしょうね。逆に素材が一般的ならば表現形式が重要になります。たとえばこの「学びについて」というよく語られることなら、どのように考えたかということのほうが重要になります。このほうがはるかに難しい。たくさんの知識と経験とそれから織られた思想を要求してきます。なので私のような凡人には過ぎたテーマであって、現にショーペンハウアー小林秀雄の『読書について』から思考の土台を多分に借りているわけです。それでもありふれた人間のひとりとして自分で考えた筋を彼らの言葉を租借しつつ著しました。

書くには思想を持ってから書かないといけません。あらかじめ自分の中に築きあげたものを筆にします。書きながら何となく書きたいことが分かってくるというのは目的地を決めずにトンネルを掘るようなものです。たいてい曲がりくねって、回り道をし、簡潔さや明快さをもちません。ちゃんと目的地である結論に辿り着けているかも曖昧です。そして思想を真摯に書くこと。無意味な粉飾や筆の滑りを無くすこと。私はできていませんね。

 

この一連の作業、つまり目的を持つこと、本を読むこと、観察すること、自分の思想を作ること、人に伝えること(書くこと)を私は「学ぶこと」ととらえます。それは研究であっても趣味であっても、人生に関する問題である限り必要だと思います。

 

「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」

良い本と出会い、良い観察をし、自分の中に揺るぎない礎を築きましょう。