ジェミーの散らかった部屋

りんごを丸かじりします

学ぶことについて

 

「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」----ドイツの諺

 

「学ぶ」と言えば勉強や教科書を読んだり問題を解いたり論文を読むことが想像されるように、受験の対策からひいては自分の専門・職業になるような学びがイメージされるでしょう。とても大事なことです。それを真摯に遂行し続けることにより、新たな発見や人類の素晴らしい進歩があるのですから。それがなければ私たちは飛行機で空を飛んだり、映画を見たり、電気をつけることすらなく、それがなければ、サン=テグジュペリの人間の土地のような素晴らしい小説が生まれず、それがなければ宮崎駿ジブリでかくも飛翔の美しさを扱ったりしなかったでしょう。 学問や技術というのは、しばしば人間性を無くすものだと非難されます。しかし電車を使い、水道から水を汲み、薬を飲み、インターネットを使いながら学はない人間は幸せだというような姿勢はあんまりみっともない。技術は人の行動は変えても、人間の根本は変えません。人は技術の上に新たな夢を描くのです。

 

ただ私は職業でない学びも大事だと思っていて、それと同じ真剣さを以て世界や人間を理解することに関しても対峙するとよいと思っています。なぜか。なぜでしょうね、私は「現代に言語の分かる人間として生まれてしまったからには、文化も歴史も社会も、あらゆる人間のことを理解しないといけない」という義務感をもっているから、これ以上答えはないです。これを知った上でより良い世界を夢見ることが私の生きる目的なのでしょう。たぶんね。私と違って研究を通して文化、歴史、社会、人間の理解をやっているひともいるでしょう。それは大変すばらしいことです。そうでない場合、ひとはそれを趣味と呼ぶかもしれません。私は「なんで職業にしないのにそんな一生懸命勉強しているの」、などと心無い言葉を幾度投げられたかわかりませんが、とても大事なことだと思っています。無知は人の品位を下げますし、どちらかというとこちら側が自分の人生の本質だと考えています。

 

学ぶのには職業にするものと、そうでないものがあると言いましたが、同程度の真摯さを要求する限り、どちらも方法としては変わりません。私は「学び」を目的をもつこと、本を読み(ここには芸術作品を理解することも含みます)、偏のない眼で観察し、自分の頭で考え、それを伝えるという一連の流れをもって捉えます。最後の”伝える”は学びの必要条件なのか疑問をもたれるかもしれませんし、趣味ならばそこまでの誠実さを要求せずに自分が満足できればいいかもしれません。しかし私はそこまでの真摯さをもってすべきだと考えます。なぜなら自己満足のためだけの勉強はしばしば知的生産過程をすべて阻害するからです。こちらが頭を空にしていれば向こうから勝手に知識が入り込んでくるという受動的な学びの仕方で知識が付いたとしても得るところは少ないです。絶えず書物や世界に対して目覚めていなければ、人生経験からえることがないように本から得る本物の知恵はつきません。たとえ興味本位からはじめたとしても、意義も道標もない勉強をして偶然の繋がりに期待することはあまり望ましくないでしょう。何かを学ぶには最後に何かを軸に書くなり話すなり、目的をもって関わらないと完成に近づかないです。終着点を見定め、そこに川を作っていくように……

実はこの態度は私の深い反省から来る自分への厳しさです。大学三回生の秋から五回の夏の二年間ほど、私は大学の授業をほぼ受けず、人生の諸問題から逃れるようにたくさんの本を読み、長く旅をし、きれいな景色や歴史の跡を幾多見ました。耐え難い現実から去るように、いつもどこかに行きたがっていました。麻薬をやるように、ひたすら勉強していました。将来なんてなかった。自由が何より大事だった。でもそれでたくさんの人を不幸にしてしまった。「きれいな景色など見飽きた。自分のためだけの美しさなどもううんざりだ」。それで長い時間をかけて私はその生き方をやめました。自分の満足で閉じた観光旅行も、逃げるための勉強も。本に書かれた思想を自分の身に照らして理解することが大切で、自分を忘れるために本を読むのは好ましくない。小説をたくさん読んでいると空想と現実の境界線があいまいになって、そういったイリュージョンはとても楽しいのだけれど明らかに健康でないですね。それで、やっと長旅も含めて何かを書かないと、という気分になってこうつらつらと書き始めた次第です。まだこの意味で私の旅はまだ完結していないんですね、もう二年以上もたったのに!自分の行動により厳しい条件を課さないとつまらなくなったのはもしかしたら不幸なのかもしれませんが、まあ仕方ない。自分を見つめなおしてより大きな全き人格になったということではないでしょうか。そうなのだと期待しています。タルコフスキーを論文読みにとどめず鑑賞会として発表したのもこの気づきの一環なのでしょう。

 

さて学ぶには目的や人に伝えることが不可欠という話をしましたが、その過程は「本と観察から自分で思想を作り出すこと」が構成します。

まずは本を読むことについて書きます。

本とは古から現代までの知識人の思考を伺うことができます。これは考える土台・生きる基盤を与えます。

読む本は選ばなければいけません。第一級の本のみを読むべきです。原著を読むべきです。可能なら原語で読むべきです。「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」こういった言葉があるように、今流行る考えよりも時を経ても擦り減らないことの方が難しいものです。原著者・創設者・発見者の書いたものを読むべきです。他人、天才の思考をたどり、天賦の才の使い方を学ぶこと。一流の本はたとえ表面上わかりやすくても必ず難解なものです。重要な本は二回三回と読むべきです。

第一級のものを自分で選ぶためには歴史を知る必要があります。その意味ではある分野の概説の書は大変に役に立ちます。自分がなにを書きたいか、そのためには誰の、何を読むべきかという指針が立つからです。これは学びの目的を設定することにもつながります。

本は読めば読むほど見えるものが広がります。植物の本を読めば鴨川の緑がより豊富に見え、量子力学を学べばミクロなものが扱えるようになるように。今までみえていたぼんやりとした景色がよりはっきり見えるという点で、読書は視力を良くすると言えます。今まで見えていなかった世界を見る方法を与えるという点で、読書は人の目を開き、視界を広げるとも言えます。座学は世界を広げ、より秩序よく分割されたものにします。身につけた量だけ人の目を開き、視力をよくします。

書経験を自分のものにすることが大事です。身に着けるというのは時間や自分の頭など様々な犠牲を要求します。人生に浸食してきます。名著の自分に与える影響を恐れないという態度が必要になります。たまに読んだ本の数を自慢する人がいますが、流し読みや要約を読むことは読書とは言いません。そういうスノッブはさっさと見切って己の机に向かうべきです。勉強が修養となるのは、私たちが天才の考えた思考やその方法を学び、体に染み込ませたときのみです。私たちは食べ物で体を養うように読書で精神を養っています。口に含んで口から吐き出すのではなく、しかと飲み込み、吸収・消化しないと本を読んだとは言い難いのではないでしょうか。

 

観察から学ぶこと。これも大事です。自分の屈託のない目で見、自分の五感をいっぱいに使い、ものを見ること。教養とは生きることの関する洗練された知恵です。生活の体験に基づいて得られ、その人に身についており、話し方、仕草、挙動などあらゆるものに顕れます。世界に対して目を開いていなければ一体どうして生きた知識が得られるでしょう。また、このために本は役に立ちます。なぜなら本は私たちの思考の基盤だからです。本は読めば読むほど視力がよくなり目が開きます。広く見通せるようになった上で、土台を一度剥ぎとり、もう一度自分の目で見るのです。これは全く簡単なことではないし、議論を呼ぶ言い方ですね。でもそうすべきです。レヴィ=ストロースはそういう目を以て『悲しき熱帯』を書き、西洋的視点が他のあらゆる未開の文化にまさるという西の傲慢を暴きました。人の頭で考えたことをなぞったり、それ何かを付け加えることは簡単です。ただブレイクスルーがブレイクスルーであるためにはたくさんの賛同者が要ることも事実です。自分はどうありたいか、問い直すべきですね。

 

自分の思想を作ります。本を読む、屈託のない目で観察する、そうして得た知識を体系化します。読書や観察から得られた素直な真理を次第に鍛錬し、豊富にし、思想と呼べるものになるまで育てます。他人の意見の横流しは、義足・義手・蝋製の鼻・他人の肉を身にまとってぎくしゃくと歩いているようなものです。生まれながらに備わった肢体のように自然に扱えるまで自分の思想を整えます。本の受け売りよりも、自分でじっくり考えた知識の方がダイヤモンドの価値を持ちます。逆にそこまで高みに上ることにより、名著は、経験は、もう一度新たな深い思想をあなたに語り掛けるでしょう。それこそが、日常が実は肥沃であり、第一級の本が大変難解な理由です。知識が自分のものとなり、そしてより大きな知恵となる瞬間がここにあるとおもうのです。

 

築いた思想を表現します。書きます、人に伝えます。

何について、どう考えたかが大事です。つまり素材と表現形式です。素材が珍しいことならば書きやすい。大した文章家でなくともそれだけで面白く書けるから。この点でユーラシア大陸横断なんか書きやすいでしょうね。逆に素材が一般的ならば表現形式が重要になります。たとえばこの「学びについて」というよく語られることなら、どのように考えたかということのほうが重要になります。このほうがはるかに難しい。たくさんの知識と経験とそれから織られた思想を要求してきます。なので私のような凡人には過ぎたテーマであって、現にショーペンハウアー小林秀雄の『読書について』から思考の土台を多分に借りているわけです。それでもありふれた人間のひとりとして自分で考えた筋を彼らの言葉を租借しつつ著しました。

書くには思想を持ってから書かないといけません。あらかじめ自分の中に築きあげたものを筆にします。書きながら何となく書きたいことが分かってくるというのは目的地を決めずにトンネルを掘るようなものです。たいてい曲がりくねって、回り道をし、簡潔さや明快さをもちません。ちゃんと目的地である結論に辿り着けているかも曖昧です。そして思想を真摯に書くこと。無意味な粉飾や筆の滑りを無くすこと。私はできていませんね。

 

この一連の作業、つまり目的を持つこと、本を読むこと、観察すること、自分の思想を作ること、人に伝えること(書くこと)を私は「学ぶこと」ととらえます。それは研究であっても趣味であっても、人生に関する問題である限り必要だと思います。

 

「新しいものが良いものであることは稀だ。良いものが新しいのはほんの束の間だから。」

良い本と出会い、良い観察をし、自分の中に揺るぎない礎を築きましょう。